第106話 暴走しない魔導師
命令波が、急に強くなった。
医務室の観測板が震える。
リリアが押さえようとして、指先を弾かれた。
「増幅されています」
イリスの顔が青ざめる。
「外から補助術式が入っています。魔塔式です」
魔塔。
その言葉だけで、医務室の空気が変わった。
イリスの過去。
彼女を危険物として扱い、実験体として登録した場所。
その残党が、解放者の家へ術式を撃ち込んでいる。
命令波を増幅するために。
魔塔式の術式は、きれいだった。
それが、余計に腹立たしかった。
人を壊すための術式なのに、無駄がない。
命令波の谷に魔力を流し込み、刻印痕の反応だけを持ち上げる。
本人の意思には触れない。
触れないからこそ、「自発反応」と言い張れる。
外から見れば、命令に逆らいきれなかった人間が勝手に立ち上がっただけに見える。
魔塔は、そういう汚さを知性で包むのが得意だった。
イリスは観測板の前で、唇を噛んでいる。
彼女だけが、その術式の意図を細部まで読める。
読めてしまう。
だから顔色が悪い。
「場所は」
俺が聞くと、イリスは観測板を見る。
「北東。丘の陰。小型の増幅陣です。直接攻撃ではありません。命令波を、刻印痕へ通りやすくしている」
「壊せるか」
「近づけば。でも今は」
医務室で、エナが悲鳴を上げた。
ダロが膝をつく。
コルが薬箱を落とす。
床の白墨線が踏み荒らされる。
名前札が一枚、寝台の下へ滑った。
リリアが拾おうとして、別の反応者を支えるために手を伸ばす。
マルタが水桶を蹴飛ばさないよう足で止める。
医務室の中は、一瞬で混乱した。
これが敵の狙いだ。
門を押し、林から夜爪を差し込み、魔塔式で命令波を強める。
どれか一つで突破するのではない。
同時に揺らして、こちらの「本人意思確認」を成り立たなくする。
人は混乱すると、記録も言葉も失う。
そして失った瞬間を、敵は所有権の穴として拾う。
命令波が強くなり、名前を呼ぶ声だけでは押さえきれなくなっている。
俺の右手が熱を持つ。
まただ。
使えば、止められるかもしれない。
だが、イリスが首を振った。
「一括干渉はまだ駄目です。今触れると、増幅陣がレオンさんの反応まで拾います」
「なら、どうする」
イリスは答えなかった。
彼女の手が震えている。
魔力炉の奥で、実験印が反応していた。
魔塔式の術式は、彼女の身体に刻まれた恐怖を正確に刺激している。
「私が、広域遮断を張ります」
声は小さい。
だが、言った。
マルタが即座に聞く。
「危険は」
「あります。広域で魔力を広げれば、暴走する可能性があります。私の魔力炉は、まだ完全に安定していません」
医務室が静まる。
誰も軽く「大丈夫」とは言わない。
言えない。
イリス自身も、何度も暴走しかけた。
王都裁判の前、魔塔の記録を見た時。
禁忌実験の名前を聞いた時。
自分の魔力炉が、誰かの命令で作られたものだと知った時。
そのたびに彼女は、怖いと言った。
危険物扱いされた人間が、危険ではないと証明するために、誰より慎重であろうとしていた。
けれど、慎重であればあるほど、魔塔はそこを突く。
お前は危険だ。
広げれば暴走する。
なら何もするな。
そう囁くために。
イリスが暴走を恐れていることを、みんな知っている。
彼女が危険物と呼ばれてきたことも、知っている。
その沈黙の中で、エナが寝台から手を伸ばした。
「怖い」
イリスが顔を上げる。
「私もです」
「でも、イリスさんに、見てほしい」
エナは震えながら言う。
「命令、怖い。でも、何が起きてるか分からない方が、もっと怖い」
ダロも床に手をついたまま言った。
「庭の薬草、イリスさんが見てくれた。毒草と薬草、分けてくれた」
コルが薬箱を拾い直す。
「危険物じゃない。先生」
イリスの目が揺れた。
先生。
魔塔で実験体番号として呼ばれていた彼女に、解放者の家の住人がそう呼んだ。
危険物ではなく。
魔導師として。
誰かを助ける人として。
イリスは少しだけ笑い、すぐ泣きそうな顔になった。
「先生は、失敗しない人の呼び名ではありません」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「分からないことを分からないと言って、危険を危険と説明して、それでも必要なら手順を組む人の呼び名です」
エナが頷く。
「じゃあ、先生」
「はい」
「手順を、ください」
その一言で、イリスの震えが少し変わった。
恐怖が消えたわけではない。
だが、恐怖の上に仕事が乗った。
イリスは観測板を持ち上げ、マルタへ渡す。
「反応者を白墨線の内側へ戻してください。名前札は足元ではなく胸の上へ。見えやすくします」
「了解」
「リリアさん、水は一口ずつ。過呼吸の人には飲ませすぎないで」
「はい」
「ロゼッタさん、時刻を読んでください。十秒ごとに」
「任せて」
指示が流れた。
命令ではない。
医療と魔術の手順だ。
受け取った者たちも、命じられたからではなく、理解して動く。
「イリス」
俺は言った。
「使うかどうかは、君が決めていい」
「失敗したら」
「その時は止める。俺だけじゃない。全員で」
セリアが医務室の入口で頷く。
「暴走すれば、私が盾で受ける」
ミュールが言う。
「匂いが変わったら知らせる」
ロゼッタが記録帳を開く。
「実施条件、観測、停止手順、すべて記録します」
ナギが静かに刀の柄へ触れる。
「流れが切れなくなったら、線を斬る」
イリスは深く息を吸った。
震えは止まらない。
でも、逃げてはいない。
「広域遮断結界を張ります」
彼女は言った。
「対象は命令波と魔塔式増幅陣の接続。保護対象の本人意思には触れません。レオンさん、管理者権限で補助しないでください」
「分かった」
「私の魔法です」
「ああ」
イリスは両手を広げた。
青白い光が医務室から広がる。
床の白墨線。
壁に貼られた行動表。
名前を呼ぶ声。
それらを結ぶように、細い魔力の糸が走った。
結界は、俺が知る防御魔法とは違った。
壁ではない。
檻でもない。
むしろ、たくさんの細い栞のようなものだった。
エナの名前札に触れ、本人の声へ戻る。
ダロの薬草の記録に触れ、庭で選んだ役目へ戻る。
コルの薬箱に触れ、今ここで果たしている仕事へ戻る。
命令波が来た時、ただ遮断するのではなく、まず「あなたは誰か」「今どこにいるか」「何を選んだか」を思い出させる。
イリスらしい魔法だった。
乱暴に押し返さない。
相手を縛らない。
戻るための手掛かりを増やす。
命令波を押し返す結界ではない。
命令波と本人の間に、薄い膜を置く結界。
命令が届く前に、一度、名前を通す。
そんな構造だった。
「すごい」
リリアが呟いた。
イリスの額に汗が浮かぶ。
魔力炉が唸る。
実験印が赤く光る。
魔塔式の増幅陣が、彼女の魔力を暴走させようと引く。
イリスの手が震えた。
「私は」
彼女は歯を食いしばる。
「危険物じゃない」
光が揺れる。
「私は、イリス」
医務室の住人たちが名前を呼ぶ。
イリス。
イリス先生。
イリスさん。
その声が、結界の糸を支える。
魔塔式の増幅陣が、それを汚そうとする。
青白い糸に、赤黒い雑音が混ざる。
実験体番号。
炉心欠陥。
制御不能。
危険物。
イリスの過去に刻まれた言葉が、魔力の中へ浮かび上がる。
彼女の膝が折れかけた。
セリアが盾を構え直す。
ナギの指が刀へかかる。
ミュールが息を止める。
だが、イリスは自分で立て直した。
「番号ではありません」
声が震える。
「欠陥ではありません」
糸が一本、また一本と整う。
「危険を知っている魔導師です」
命令波が来た。
今度は強い。
だが、膜に触れた瞬間、波形がほどけた。
エナの呼吸が戻る。
ダロの手が止まる。
コルが薬箱を抱え直す。
イリスの実験印が、ぱきりと鳴った。
小さな亀裂。
痛みではなく、拒絶の音。
「増幅、遮断」
イリスは震える声で言った。
「暴走、していません」
その言葉に、医務室の中で息が漏れた。
イリスは倒れそうになり、俺は支えようとした。
「触れていいか」
「はい。肩だけ」
俺は肩だけを支えた。
彼女の魔力炉にも、実験印にも触れない。
イリスは小さく笑った。
「できました」
「ああ」
暴走しない魔導師。
その言葉が、今の彼女にはふさわしかった。
外では、敵の増幅陣が沈黙した。
だが、防衛戦はまだ終わらない。
観測板には、三つの小さな反応が残っていた。
セリアの誓約痕。
ミュールの旧所属刻印。
イリスの実験印。
それぞれに、亀裂。
完全解除ではない。
だが、命令を拒む線が、別々の場所で同時に生まれている。
ロゼッタが帳簿を閉じ、低く言った。
「これは偶然ではありません」
俺も同じことを考えていた。
地下中枢は、人を分類して支配する。
王国、夜爪、魔塔。
分類は違うが、やっていることは同じだ。
そして今、その三つの鎖に亀裂が入った。
敵も、次はそれを見て動く。
防衛戦は、ただ門を守る段階を越えようとしていた。
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