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第105話 夜爪の命令は届かない

 セリアの誓約痕に亀裂が入った直後、東の林から黒い布が飛んだ。


 矢ではない。


 刃でもない。


 細く裂いた布に、灰色の糸で印が縫われている。


 それが医務室裏の木へ絡みついた瞬間、ミュールの耳が伏せた。


「夜爪」


 声が低い。


 俺が振り向くより早く、ミュールは走り出していた。


「待て」


「待たない」


 返事は短い。


 だが、命令に引かれた動きではない。


 自分で選んだ速度だった。


 黒い布は、夜爪の旧合図だった。


 ミュールが後で説明した。


 任務失敗者を再拘束する時の合図。


 逃亡個体を見つけた時、周囲の暗殺者へ命令系統を開くための印。


 その印が、解放者の家の敷地内へ投げ込まれた。


 ミュールにとって、それは音より先に身体が覚えている合図だった。


 夜爪では、失敗者の名前を呼ばない。


 任務番号。

 傷の位置。

 欠けた報酬。

 処分予定。


 そんな言葉で人を区別する。


 名前は、個人が勝手に持つ余計なものだと教えられていた。


 だからミュールは、自分の名を人前で言うことが下手だった。


 この家へ来てからも、最初は「ミュール」と口にするたび、誰かに見つかるような顔をしていた。


 今、その名を奪い返す前に、古い合図が投げ込まれた。


 敵は知っている。


 門を押すだけでは駄目なら、個別の鎖を鳴らせばいい。


 セリアには王国。


 ミュールには夜爪。


 人それぞれの傷を使い、家の中から守りを崩す。


 つまり敵の中に、夜爪の者がいる。


 あるいは、夜爪の命令系統を買った者がいる。


 ミュールの首元に、薄い赤が浮かぶ。


 旧所属照合。

 逃亡個体。

 再拘束補助。


 そんな文字が、彼女の刻印痕の奥で動いているように見えた。


 彼女の尻尾が、無意識に身体へ巻きつく。


 恐怖を隠す時の仕草だ。


 夜爪にいた頃、それを見せれば罰を受けたという。


 だからミュールはいつも、怖くない顔を作ろうとする。


 だが今は、隠しきれない。


 俺はそれを見て、喉の奥が苦くなった。


 助けたい。


 ただ、それだけで踏み込めば、俺はまた彼女の選択を奪う。


 だから問いかける。


 使うか。


 その短い確認は、俺が自分を止めるための言葉でもあった。


「ミュール」


 俺は呼ぶ。


「使うか」


「使わない」


 彼女は走りながら答える。


「まだ、ミュールで動ける」


 東の林へ入ると、空気が変わった。


 門前の書類戦から、影の戦いへ。


 木の枝が低く、朝の光が細く切れている。


 ナギがすでに林の中にいた。


「二人」


 彼女が言う。


「一人は囮。もう一人が医務室裏へ回る」


「弱い人を狙う」


 ミュールの声が冷える。


「夜爪のやり方」


 その言葉に、怒りが混ざっていた。


 命令ではない怒り。


 自分の名前で感じている怒りだ。


 林の奥で、短い笛の音が鳴った。


 ミュールの身体が一瞬、硬直する。


 夜爪の命令音。


 彼女の足が、勝手に向きを変えかけた。


 その音は、普通の人間にはただの笛に聞こえる。


 だが、ミュールには違う。


 伏せろ。

 戻れ。

 殺せ。

 報告しろ。


 複数の意味が、身体の古い傷から立ち上がる。


 足首が、林の奥へ向こうとした。


 指が、短剣の柄へ勝手に触れた。


 狙うべき喉の高さを、身体が先に測っていた。


 夜爪の教育は、命令を考える前に実行するよう作られている。


 だからこそ強かった。


 だからこそ、今のミュールには残酷だった。


 俺の右手が熱くなる。


 止めたい。


 だが、ミュールが先に地面へ爪を立てた。


「ミュール」


 自分で名を呼ぶ。


「ミュールは、ここ」


 もう一度。


「ミュールは、解放者の家を守る」


 笛の音が二度目を鳴る。


 彼女の首元が赤く光る。


 だが、彼女は動かない。


 ナギが横目で見る。


「斬る?」


「まだ」


 ミュールは息を吐く。


「捕まえる。聞く」


 彼女は地面すれすれに身を沈めた。


 俺は追いながら、彼女の戦い方が変わっていることに気づいた。


 昔のミュールなら、最短で急所を選ぶ。


 音を消し、血を散らさず、相手が自分の死に気づく前に終わらせる。


 それが夜爪の技術だ。


 だが今の彼女は、わざと一拍遅らせている。


 相手がどこへ向かうか。

 誰を狙うか。

 どの命令で動いているか。


 情報を拾うために、殺せる距離で殺さずにいる。


 それは単なる手加減ではない。


 この家を守るための判断だった。


 次の瞬間、林の影へ消える。


 囮の男が、わざと枝を踏む。


 こちらの注意を引くためだ。


 ミュールはそちらを見ない。


 音ではなく、匂いを追っている。


 医務室裏へ向かう本命。


 弱者を狙う斥候。


 その背後へ、ミュールは回り込んだ。


 男が短剣を抜く。


 首に、夜爪の小さな印。


 元構成員か、買われた手駒か。


 どちらでもいい。


 彼は医務室の壁へ近づいていた。


 中にはエナたちがいる。


 命令波に耐えている者たちがいる。


 男の狙いは、俺たちの主力ではなかった。


 門でもない。


 医務室の裏窓。


 そこから煙玉か、追加の命令布を投げ込むつもりだったのだろう。


 弱っている者を一人でも歩かせれば、敵は「本人意思」と書ける。


 家の中が混乱すれば、門も崩れる。


 夜爪はいつもそうだと、ミュールは言っていた。


 一番硬い扉ではなく、一番痛む傷を探す。


 ミュールは飛びかかった。


 殺すなら、首を裂けた。


 だが、彼女はそうしなかった。


 腕を取り、膝を崩し、喉ではなく口を塞ぐ。


 男の短剣が落ちる。


 ナギが遅れて囮を止めた。


 刀の峰で手首を打ち、地面へ転がす。


 俺が追いつく頃には、二人とも生きたまま拘束されていた。


「誰の命令」


 ミュールが本命の男に聞く。


 男は笑った。


「夜爪は、逃亡個体を許さない」


 ミュールの首元がまた光る。


 逃亡個体。


 その言葉は、扉の分類と同じだ。


 人を名前ではなく状態で読む。


 男は続けた。


「戻れば処分は軽い。手足の一本で済む。主人が変わっただけなら、所有者照会で済ませてやる」


 ミュールの喉が、小さく鳴った。


 恐怖だ。


 俺は分かった。


 ナギも分かったのだろう。囮を押さえたまま、刀の柄に指をかけた。


 だが、ミュールは首を振る。


 殺すな、という合図だった。


 彼女は男の首ではなく、地面に落ちた黒布を見た。


「これ」


 ミュールは布を拾う。


「昔、ミュールも投げた」


 男が笑う。


「なら分かるだろう」


「分かる」


 ミュールの手が震える。


「投げた後、誰かが泣いた。ミュールは見ないふりをした」


 林の音が遠くなる。


「もう、見ないふりしない」


「ミュールは個体じゃない」


 彼女は言った。


「ミュール」


 男が笛を吹こうとする。


 ミュールは笛を奪い、握り潰した。


「届かない」


 声は震えていた。


 だが、立っている。


「夜爪の命令は、もうミュールに届かない」


 その瞬間、首元で小さな音が鳴った。


 硝子にひびが入るような音。


 イリスが遠くから叫ぶ。


「ミュールさんの刻印痕、亀裂反応」


 ミュールは一瞬だけ目を閉じた。


 倒れない。


 命令に従わない。


 男を殺しもしない。


 自分の名前で、弱者の避難路を守った。


 俺は彼女の横へ立つ。


「大丈夫か」


「怖い」


 ミュールは正直に言った。


「でも、ミュールでいられる」


 ナギが囮の男を縛りながら言う。


「情報は取れる」


 ミュールは頷く。


「殺さない。聞く」


 その選択が、夜爪から最も遠い場所だった。


 医務室の中から、エナの声が聞こえる。


「ミュール」


 弱い声だ。


 けれど、名前を呼んでいる。


 ミュールの耳が少しだけ動いた。


「いる」


 彼女は答えた。


 夜爪の命令ではなく、家の中から呼ばれた名前に。


 拘束された男たちは、ロゼッタの指示で門から見えない納屋へ運ばれた。


 殺さず捕らえた事実も、記録になる。


 夜爪の合図がこの戦場に混ざった証拠になる。


 ミュールは黒布を俺に渡そうとして、途中で止めた。


「ミュールが持つ」


「危なくないか」


「危ない」


 彼女は正直に言った。


「でも、これはミュールの昔。誰かに隠してもらうだけだと、また怖い」


 俺は頷いた。


「分かった。持っていてくれ」


「うん」


 ミュールは黒布を握り、医務室の方へ歩く。


 その背中はまだ小さく震えていた。


 それでも足取りは、夜爪へ戻るものではなかった。


 解放者の家へ帰る足取りだった。


 医務室の入口で、エナがまだ起きていた。


「怖かった?」


 ミュールは少し考えてから頷く。


「怖かった」


「逃げなかった」


「うん」


「すごい」


 その言葉に、ミュールは困ったように耳を伏せた。


「すごくない。殺さなかっただけ」


 ロゼッタが納屋から戻り、静かに言う。


「その『だけ』が重要です。夜爪の手駒を生かして捕らえた。証言も取れる。敵の違法介入を示す証拠にもなる」


 ミュールは黒布を握ったまま、俺を見る。


「殺さない方が、守れることもある?」


「ある」


 俺は答えた。


「今日のミュールは、それをした」


 彼女はすぐには笑わなかった。


 けれど、黒布を握る手から、ほんの少しだけ力が抜けた。


 夜爪が教えた強さとは別の強さが、そこにあった。


 その強さを、敵はまだ知らない。



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