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第104話 王国ではなく目の前の人々

 門が軋んだ。


 王国軍の前衛が、盾で押している。


 剣は抜かない。


 それでも十分に暴力だった。


 門を壊すのではなく、押し開ける。


 攻撃ではなく、保安活動だと言い張れる形で。


「王国臨時保安隊として、確認対象の保護を実施する」


 隊長が声を張る。


「抵抗する者は、王国法に基づき排除する」


 セリアは門の内側で盾を構えた。


 今度は隠さない。


 門が押され、人が危険に晒された以上、盾を見せる理由がある。


「セリア・グランフォード」


 門の外から、別の声がした。


 セリアの肩がわずかに止まる。


 王国軍の列の中から、一人の騎士が前へ出た。


 革鎧ではない。


 旧王国騎士団の青い外套。


 顔には疲労があるが、構えは崩れていない。


「ガルド」


 セリアが名を呼んだ。


 元同僚。


 その空気だけで分かった。


 ガルドと呼ばれた騎士は、門越しにセリアを見る。


「生きていたのなら、戻る道もあった」


「戻る道?」


「王国へだ。冤罪の一部は見直されつつある。だが、ここで反乱に加担すれば終わりだ」


 セリアは静かに息を吐いた。


 その息には、昔の戦場の匂いが混じっているように見えた。


 セリアはガルドの顔を忘れていなかった。


 王都裁判で名前が出る前から、彼女は何度かその名を口にしていた。


 同じ隊で巡礼路を守った騎士。


 雨の夜に負傷兵を運んだ男。


 命令違反ぎりぎりで民家を避難させ、上官から叱責を受けたこともある男。


 だからこそ、今の言葉は重かった。


 知らない敵が叫ぶ「どけ」より、かつて同じ盾を並べた相手が言う「戻れ」の方が、ずっと深く刺さる。


 ガルドもそれを知っている。


 彼はセリアを脅しているだけではない。


 本気で、これが救いだと思っている顔をしていた。


「王都での件は聞いた」


 ガルドは声を落とした。


「勇者アルベルトの告発には不備があった。教会内部にも、再調査を求める者がいる。今ならお前は、完全な名誉回復ではなくとも、騎士団預かりとして戻れる」


「騎士団預かり」


「悪い条件ではない。奴隷籍からも外せる。お前だけなら」


 お前だけなら。


 その言葉で、セリアの背筋がわずかに硬くなった。


 門の内側には、エナがいる。


 ダロがいる。


 コルがいる。


 命令波に引かれながらも、自分の名前に戻ろうとしている人々がいる。


 彼らを置いて、セリアだけが王国へ戻る。


 それは、確かに彼女個人にとっては救済に見えるのかもしれない。


 だが、セリアの目は揺れなかった。


「私は反乱に加担しているのではない」


「では何をしている」


「目の前の人々を守っている」


 ガルドの表情が歪む。


「王国法は、刻印契約下にあった者の所有権確認を認めている。お前は元聖騎士だ。法の意味を知っているはずだ」


「知っている」


「なら、どけ」


 短い命令。


 その瞬間、セリアの首元の誓約痕が淡く光った。


 イリスが息を呑む。


「聖騎士誓約が反応しています」


 王国法。


 騎士団命令。


 秩序維持。


 その言葉は、彼女の身体に深く染み込んでいた。


 朝の祈祷。


 剣の稽古。


 盾の磨き方。


 民を守れという教義。


 命令を疑うなという隊律。


 聖騎士として生きた時間のすべてが、彼女を王国へ引き戻そうとする。


 セリアの指が盾の革紐を強く握る。


 俺はその白くなった指を見て、ようやく理解した。


 これは敵を倒す戦いではない。


 セリアが、かつて誇りだったものを憎まずに、それでも従わないと決める戦いだ。


 セリアがかつて誓った言葉が、地下中枢の命令波に拾われている。


 奴隷刻印ほど露骨ではない。


 だが、誓約もまた登録の一種だ。


 王都地下で見た分類の壁が、ここでも彼女を引いている。


「レオン」


 イリスが小さく言った。


「支援は待ってください。セリアさんが自分で制御しています」


 俺は右手を握った。


 止めたい。


 セリアの誓約痕を押さえたい。


 だが、門前で学んだばかりだ。


 本人の領域を、俺が先に奪ってはいけない。


「セリア」


 俺は呼んだ。


「使うか」


 セリアは振り返らない。


「まだ要らぬ」


「分かった」


「必要なら、言う」


 それだけで、俺は手を下ろした。


 ガルドが門の外で眉を寄せる。


「誰に許可を求めている。お前は騎士だろう」


「騎士だからだ」


 セリアは答えた。


「力を借りるかどうかを、自分で決める」


 ガルドは苦い顔をした。


「その男にそう言わされているのではないのか」


 セリアの背後で、住人たちの視線が俺に向く。


 奴隷を従える主人。


 世間から見れば、俺はその役を背負っている。


 いくら本人意思を確認し、契約解除を進め、命令を使わないと誓っても、外から見れば都合のよい言い訳に見えるのだろう。


 その疑いは、完全には消せない。


 だから俺は、黙った。


 ここで俺が「違う」と叫べば、それはセリアの言葉を奪う。


 セリアは少しだけ肩越しに俺を見た。


 その目が、黙っていてよいと言っていた。


「ガルド」


 彼女は門の外へ向き直る。


「私はレオンに命じられてここに立っているのではない」


「証明できるか」


「今、している」


 盾が床を鳴らす。


「私が私の言葉で答えている。この声を聞け。それでも奴隷の戯言だと言うなら、貴殿が騎士として捨てたものは私より大きい」


 ガルドの顔色が変わった。


 怒りではない。


 痛みに近い変化だった。


「詭弁を覚えたな」


「いいや。ようやく、誓いを自分のものにしただけだ」


 門がまた軋む。


 王国軍の前衛が力を強めた。


 解放者の家の住人たちが、医務室側へ反応者を下げる。


 エナが震えながら水を握る。


 ダロが庭へ行こうとする子どもを止める。


 コルが薬箱を抱え、リリアへ布を渡す。


 守られるだけの者ではない。


 全員が、自分にできることをしている。


 セリアはそれを背にして立っていた。


「ガルド」


 彼女は言った。


「王国法が、人を資産として扱うなら、私はその法の盾にはならない」


「法を否定するのか」


「人を否定する法を、盾で守るつもりはない」


 ガルドの顔が険しくなる。


「それは反逆だ」


「かもしれない」


 セリアは認めた。


「だが、目の前の人間を荷馬車へ戻すことを忠義と呼ぶなら、私はその忠義を捨てる」


 誓約痕の光が強くなる。


 セリアの膝がわずかに沈む。


 俺は思わず一歩出た。


 だが、彼女が盾を床へ打ちつけた。


 鈍い音。


 その音が、命令波を切るように響く。


「私はセリア・グランフォード」


 彼女は名乗った。


「王国の所有物ではない。教会の道具でもない。誰かの奴隷でもない」


 盾の縁が淡く光る。


「私は、私の誓いでここに立つ」


 門の外で、ガルドが剣に手をかけた。


 セリアは盾を構える。


 王国軍の前衛が押す。


 門の木が裂けかける。


 ガルドは剣を抜きかけ、しかし止めた。


 まだ剣を抜けば、彼自身も一線を越える。


 だから彼は命じた。


「盾列、前へ。女を傷つけるな。押し込め」


 その言い方に、セリアの口元が少し歪んだ。


「傷つけるな、か」


「何がおかしい」


「人を荷馬車へ戻す手伝いをしておいて、傷つけていないと思っている」


 門の隙間から、盾の縁が入ってくる。


 セリアは自分の盾をぶつけるのではなく、相手の盾の角を下から撥ねた。


 力の向きがずれる。


 王国兵が一歩たたらを踏む。


 その間に、住人たちがエナたちをさらに奥へ下げた。


 セリアは斬らない。


 押し返しすぎない。


 攻撃に見えない範囲で、ただ人の動線を守る。


 それは聖騎士としての技術そのものだった。


 ただし、守る対象が王国の命令ではない。


 目の前の人々だ。


「レオン」


 セリアが言った。


「盾の補強だけ、許可する。私の誓いには触れるな」


「了解」


 俺は支援を流した。


 盾の革紐。


 金具。


 木板。


 セリアの身体には触れない。


 誓約痕には触れない。


 盾だけを支える。


 補強された盾が、門の内側へ差し込まれる。


 セリアは門ではなく、人の動線を守る。


 押し込まれた前衛の力を斜めに流し、門を完全に破らせない。


 ガルドが叫ぶ。


「セリア、お前は王国を捨てるのか」


「違う」


 セリアは歯を食いしばった。


「王国の名で、目の前の人を捨てることを拒む」


 その瞬間、セリアの首元で何かが鳴った。


 小さな音。


 硝子にひびが入るような音。


 イリスが叫ぶ。


「誓約痕に亀裂」


 セリアは倒れなかった。


 むしろ、盾を持つ姿勢が安定する。


 命令波が弱まったわけではない。


 だが、彼女の中に、命令を拒む線が生まれた。


 ガルドは呆然とした。


「何を、した」


 セリアは静かに答えた。


「誓い直した」


「誰に」


 ガルドの声は掠れていた。


「王にか。教会にか。その男にか」


「いいや」


 セリアは門越しに、かつての同僚を見た。


「この盾を必要とする者に」


 その答えは、王国の式典で聞く誓詞ほど美しくはない。


 けれど、今この門の内側でだけは、どんな神聖な文言より強かった。


 エナが座ったまま、震える手で水杯を握る。


 ダロが庭の子どもを背に隠す。


 コルが落とした布を拾い、医務室へ戻す。


 彼らの動き一つ一つが、セリアの盾の後ろにある。


 ガルドはそれを見て、剣から手を離せなかった。


 抜くことも、戻すこともできない。


 王国の秩序と、目の前の光景が噛み合わなくなった者の顔だった。


 門の内側で、住人たちが息を呑む。


 セリアの刻印に、初めて小さな亀裂が入った。


 完全な自由ではない。


 だが、命令ではなく自分の誓いで立つための、最初の亀裂だった。


 門の外で、隊長が苛立たしげに合図を送る。


 聖騎士の説得は失敗した。


 ならば次は、別の鎖を使う。


 東の林から、黒い布が風に乗って飛び込んできた。

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