第6話 愛と闇の中で、曲がり角はどこ
白環橋の工事開始まで、あと十二日。香澄が川辺作業室へ入ると、聖子は机の上に一冊の詩集を置いていた。入口内側の意見箱を開けたばかりで、鍵付きの引き出しには新しい投函紙が入っているらしい。
「詩の会を開くんですか」
「まだ決めていないわ。ただ、すばらしい題名なの。『愛と闇の中で』」
聖子はその六文字を、舞台の幕を上げるような調子で読んだ。香澄は窓の外に見える川沿いの道を思い浮かべた。
「闇のなかで愛を告白する話なら、橋の補修とは無関係です」
「決めつけないで。詩の一節に、通行の不便が隠れているかもしれないでしょう」
聖子が差し出した紙には、題の下にも文字が続いていた。二人だけで原紙を確認する約束なので、香澄は立ったまま最後まで読む。
『愛用の台車を暗い角でぶつけた。道の案内が小さくて、どっちに曲がるか分からなかった。』
「愛の対象、台車でした」
「そうね。台車を大事にする気持ちは、恋の歌にも負けないわね」
聖子が詩集を閉じる。香澄は笑いかけ、すぐに紙を見直した。台車が何に当たったのか、けがはなかったのかは書かれていない。勝手に無事だったことにはできない。
二人は原紙を引き出しへ戻し、作業用の表に「分岐の視認性」「荷物を運ぶ際の曲がり角」と記した。個別の持ち物や言い回しは、外へ出す表には写さない。
午後、公太郎と湊斗が集まると、聖子はまず題名の面白さだけを話した。公太郎は「台車と恋なら、荷台に花を彫るのはどうでしょう」と考え込み、香澄は二人を見比べて笑った。
「まだ文学作品だと思っているんですか。台車を角にぶつけたという、ただの道の不便ですよ」
「笑うなら題名までにして」と湊斗が言った。「困って書いた人のことまで、面白がらなくていい」
いつもの穏やかな声だったが、言い終えても彼は話を取り繕わなかった。香澄は、台車を運ぶ姿を想像した。暗い道で曲がる方向を迷えば、荷物を抱えた人は立ち止まるだけでも苦労する。
「そうですね。題名は私たちには意外でも、ぶつけた人には笑い事じゃない」
「でも、道の話なら直せるところを探せます」と公太郎は方眼帳を開いた。「昨日から考えていた地図を見てください」
広げられた紙には、狐、兎、熊の足跡が何列も並んでいた。赤い丸が白環橋、青い線が東橋へ向かう道らしい。ところが長いほうの迂回路は熊の足跡の下に隠れ、階段の印は兎の耳と重なっている。
「この狐はなんですか」と香澄が聞いた。
「右へ曲がる目印です。兎は左です。熊は階段があるところで――」
「動物の知識がないと道を選べません」
公太郎は鉛筆を握った。「狐の足跡は、僕にはとても分かりやすいんです」
「公太郎が分かることと、初めて通る人が分かることは違うよ」
湊斗は地図を責めず、机の反対側から眺めた。「試してみよう。工事中に白環橋が使えないとして、台車を押して東橋まで行くなら、どこを曲がる?」
公太郎は紙を少し離して持ち、しばらく黙った。狐の足跡が二つの分岐にまたがっている。自分で描いたはずの地図を何度も回し、ようやく階段のない道を指した。
「作った僕が迷いましたね」
「足跡は悪くないと思うよ。木工の展示なら、むしろ見に行きたい」と湊斗は言った。「でも道を選ぶ紙では、曲がり角より先に動物が目に入る」
公太郎は悔しそうに口を結んだあと、消しゴムで熊を消した。何を削れば伝わるか測り直すのは、彫刻を作るときと同じらしい。
湊斗は配送会社で使う荷札の見本を出した。行き先を一目で区別できるよう、大きな文字と向きを示す印を揃えたものだ。
「急いで荷物を運ぶ人は、小さい説明を何度も読み返せない。『階段あり』と『階段を避ける道』を、最初に見える位置へ置こう。矢印も、写真の向きと揃える」
「じゃあ、最初の一文は『この道がもっとも快適』ですね」と聖子が提案する。
「快適かどうか、私たちでは保証できません」と香澄は答えた。「それに長い道は、今のままでは遠回りです」
香澄は印刷店から持ってきた試作の余白を切りそろえ、二枚の写真の下に撮影地点と進行方向を入れた。曲がる手前から見える案内板の位置、階段の入口、階段を避ける道の順に並べる。文字を減らそうとして『段差回避』だけにすると、湊斗が首を振った。
「その言葉に慣れていない人もいる。『階段を使わずに行く道』のほうが、少し長くても意味が分かる」
「長くなるのが正解のこともあるんですね」
香澄が書き直す間、湊斗は理由を続けた。「それと、ここの矢印は直したほうがいい。写真の左へ行くように見えるけど、実際に曲がるのは右だから」
香澄は一瞬だけ手を止めた。以前なら、彼は角を立てない言い方を探しただろう。今は間違いを率直に告げてくれた。
「分かりました。写真を撮った人の向きではなく、歩いてくる人の向きに統一します」
机の上で並べ直した紙を、公太郎が少し離れた場所から読んだ。動物を全部消した案には寂しそうだったが、分岐を迷わず選べることを確かめると、方眼帳の余白に小さく狐を描いた。それは地図ではなく、次に作りたい置物の下絵になった。
聖子は町の工事担当窓口へ電話をかけた。最初に「地域の心をつなぐ夜道の――」と言いかけ、香澄から無言で渡された見出しを読んで言い直す。
「白環橋の通行止めに伴う、迂回路の分岐についてです。作業室で集めた気づきと、公開歩道から撮影した確認資料があります。提出先を教えてください」
担当者は、補修工事の安全上の通行止めは予定どおり実施すると説明したうえで、分岐表示や道の見通しに関する資料は受け取れると答えた。照明については管理する部署が別なので、現場を確かめたうえで連携する必要があるという。
「すぐに灯りがつくわけではないのね」と聖子が言う。
「今日決めてしまったら、管理者の確認を飛ばします」と香澄は答えた。「私たちは報告する側です」
四人は写真ごとに撮影した日、場所、向きを確かめ、階段の有無と既存の案内板の見え方を区別して記した。夜間の暗さは寄せられた意見として要点だけを伝え、自分たちが夜に調査したようには書かない。原紙の文面は添付せず、差出人も台車の持ち主も探さなかった。
資料を送ったあと、公太郎は提出用の地図を指さした。「狐が一匹もいません。せめて表紙に足跡を」
「表紙だけで分岐を間違えたら困ります」と香澄が言う。
「じゃあ、次は迷わない足跡を考えます」
その前向きさに、聖子は笑ってしまった。冗談にするのは、自分たちの工作だけでいい。
夕方、窓口から受領の返信が届いた。分岐と段差の現場確認を担当側の日程に入れ、後日説明の機会があれば四人の記録を事実資料として紹介してほしい、とある。設置や改善が決まったとは、まだ書かれていない。
「説明の場ね」
聖子はホワイトボードを引き寄せ、大きな字で『灯川町・真夜中の橋と人々の愛を照らす――』と書きかけた。
「題名を増やすより、説明する事実を揃えましょう」
香澄が言うと、聖子は長い見出しの半分を消し、代わりに「分岐」「階段」「管理者の確認事項」と三つの欄を作った。
帰り支度をする湊斗は、その欄を見て「それなら僕も手伝える」と言った。香澄は、彼が何を手伝えるかを先に決めつけず、資料の束を机の中央に置いた。次に必要なのは誰かを勇者と呼ぶ言葉ではなく、誰がどの事実を確かめるかという、地味で大切な相談だった。




