第7話 永遠に治らない傷、とは誰の言葉か
白環橋の工事開始まで、あと十日。川辺作業室の長机は、半分が地図、残り半分が聖子の色紙に占領されていた。
「『川と町の未来を語る、真夜中の橋の――』。これなら説明会らしいでしょう」
「まだ開催日時の確認が取れていません。表題より先に、町の担当者の都合です」
香澄が返すと、聖子は色紙を裏返した。裏にはさらに長い題名が三つあった。これだけ候補を用意する集中力を、案内の校正にも分けてほしい。
前々日に提出した分岐の写真は、町の担当窓口で確認が進んでいる。聖子は、話し合いの席を開けるなら地上階を使おうと、机の配置を考え始めていた。公太郎はその横で、地図を立てる木製の台の幅を測っている。
「前から読んでも裏から読んでも正しい地図を作りたいんです」
「裏から読めると、右と左が逆になります」と香澄は言った。
「じゃあ、裏には『こちらは裏です』と彫ります」
それは印刷した紙にも書ける。けれど公太郎が楽しそうに寸法を直すので、香澄は笑いをこらえるだけにした。
聖子に頼まれて、香澄は資料棚から折り畳み椅子の配置図を探した。古いファイルがぎっしり詰まり、一冊抜くと隣の薄い綴じ具までついてきた。
『旧ポンプ所・浸水後の施設点検記録』
五年前の日付が、表紙の右上に記されていた。
「それ、今の作業室になる前の記録ね。建物を借りるとき、設備の履歴として引き継いだの」と聖子が言う。「椅子の図は青い背表紙よ」
「……少しだけ、見てもいいですか」
聖子は香澄の顔を見てうなずいた。ただし記録を外へ持ち出さないこと、個人の話を資料に転記しないことを確かめる。開いたページには、川の増水で地下階に水が入った時刻、通電を止めた設備、翌日の点検箇所が淡々と並んでいた。誰が何をしたかという手柄話はない。
香澄は「地下窓下端まで浸水」の文字を指でなぞった。
窓を見に行くつもりはなかった。それなのに、階段へ向かう自分の足を止められなかった。
地下室の窓の脇には、壁を塗り直しても消えなかった細い水痕がある。五年前も、窓の向こうは夜で、雨粒の輪郭さえ見えなかった。
その頃、まだ作業室ではなかった旧ポンプ所で、香澄と湊斗は地域向けの避難案内を運ぶ手伝いをしていた。雨脚が強まり、外へ出る頃には階段の下に水が回っていた。無理に出ず、二人は地上階へ戻ろうとしたが、通路の扉がうまく開かなかった。
『落ち着いて。電話をかけて、ここに二人いるって言って』
湊斗がそう言った。香澄は携帯電話の画面を何度も押し間違えた。声が震え、住所も最初は言えなかった。湊斗が建物の名前を一語ずつ告げ、彼女はそれを繰り返して119番の相手に伝えた。
通用口を確かめようとした湊斗の右手を、重い扉が突然押し戻されて挟んだ。香澄は扉を引こうとしたが動かず、無理に動かさないよう止められた。香澄は消防へ状況を伝え直し、指示を聞いて、彼の手をむやみに引っ張らずに待った。扉から右手を抜く処置も、二人を安全な場所へ誘導することも、到着した消防隊員が行った。香澄が記憶しているのは、自分の通報の言葉と、湊斗が痛みをこらえていた息遣いだけだった。
「香澄」
後ろから名前を呼ばれ、彼女は現在の地下室に戻った。湊斗が階段の途中に立っていた。聖子から、香澄がここにいると聞いたらしい。
「昔の記録を見つけて」
「うん。ここは、いろいろ残っているからね」
彼は地下へ降りてきたが、水痕には近寄らず、少し離れた棚に手をかけた。指先を無意識に隠すような仕草はしなかった。そのことが、香澄にはかえってまぶしかった。
「私、あの夜は何もできなかったと思っていました」
「通報してくれたよ」
「言われたことを繰り返しただけです。あなたの手は、今も……」
香澄は続きを飲み込んだ。彼が紙束の紐を結ぶとき、少し時間をかけることを知っている。運ぶ荷物をどちらの手で支えるか考えていることも。それでも、普段の生活を彼がどう組み立てているかを、正面から尋ねたことはなかった。
「前に、治るかもしれないって聞いた気がして。私はずっと、いつか全部元に戻るんだと思っていました」
「僕は、そうなるとは言っていないよ」
責める調子ではなかった。香澄は壁の水痕を見たまま、うなずいた。
「でも、永遠に治らない傷だなんて、本人以外が決めつけるのは変ですよね。治らないって言ってしまうのも、治るって信じるのも」
「そう思っても、僕の身体を話の結論にしないで」
湊斗は声を荒らげなかった。けれど、いつものように相手が返事をしやすい言葉へ言い換えることもしなかった。
「指先が動かしにくい日はある。今の暮らしに合わせて、仕事も道具も選んでる。説明したいときは僕から話すよ。香澄が気にしてくれることと、香澄の代わりに僕が元気になることは、別だから」
香澄は何度か口を開いた。あの夜、怖かったこと。彼を助けられなかったと思っていること。聞いてほしい言葉はたくさんあった。でも今、どれを並べても、湊斗に自分の後悔の始末を頼むことになりそうだった。
「……話を聞かずに、決めつけていました。ごめんなさい」
「僕も、気まずくしたくなくて黙ってた。だから今、言えてよかった」
「怒っていますか」
「少し。でも、一緒に地図を直したい気持ちは変わらないよ」
その二つが両立することを、香澄はすぐには理解できなかった。湊斗は右手で手すりに軽く触れ、先に階段を上がった。香澄は手を貸すか尋ねる代わりに、自分の足で一段ずつついていった。
地上階では公太郎が、木工講座の古い道具箱を開いていた。説明会で使う台の材料を探すうちに見つけたという。
「そういえば五年前、動物の底に、参加した人が一言ずつ書いてくれたんでした。僕は彫った数を数えるのに夢中で、言葉のほうは覚えてなくて」
「兎にも、書いてあったわね」と聖子が答える。
「はい。あれが誰の字かは分かりませんけど、当時はみんな、好きな言葉を書いてました」
香澄は棚の奥にしまわれた兎へ視線をやりかけ、すぐ目を戻した。今なら考えられることがありそうだったが、記憶を一つの答えに急いで結びつけたくなかった。
聖子は出来上がりかけの告知の紙を広げた。大きな文字の下に、町の担当者から返答待ちの日時欄がある。香澄が地図の添え書きを直そうとすると、その一段下に目が留まった。
『五年前の勇者が見守った橋の、これから』
「聖子さん、これは誰のことですか」
「昔のことも知っている人がいると、聞く人が親しみやすいかなって。名前は出していないわよ」
「名前がなければ、誰の話でも使っていいわけではありません」
香澄は告知を机の上に戻した。湊斗が紙を見たのは、その直後だった。
彼は何も言わず、右手を机の端から離した。聖子も、その目がどこに向いたのかに気づいたらしい。白い紙の上には、まだ消されていない「勇者」という二文字があった。
香澄は赤ペンを握ったまま、湊斗を見た。消してよいか彼に聞くより先に、誰かの過去を勝手に告知へ使わないと決めればいい。けれど、何をどう言えば彼を再び説明の材料にせずに済むのか、その言葉はまだ見つからなかった。




