第5話 フルーツサラダの待ち合わせ
白環橋の工事開始まで、あと十四日。川辺作業室の入口で意見箱を置く準備をしていた聖子が、香澄を呼び止めた。
「今日の一枚、あなたにも読んでほしいの。もちろん、外へ出す文章にはしないわ」
聖子は鍵をかけた引き出しの前で、折りたたまれた紙を開いた。箱から出した原紙を確認するのは、取り扱いを決めた二人だけである。そこには道の名前も、段差の数も書かれていなかった。
『夜、川向こうでフルーツサラダを渡したい。ふたりの記念日だから。橋が閉まる間、どこで会えばいいでしょう』
「これは……恋ね」
聖子は両手を胸の前で合わせた。「真夜中の橋・恋の応援隊、結成のときが来たわ」
「結成しません。それより切った果物には蓋と保冷が必要です。待ち合わせ場所を間違えて歩き回ったら、傷みます」
「あなたは記念日にまず食品の保存状態を気にするの?」
「食べた人がお腹を壊したら記念日ではなくなります」
聖子は口を開けたまま香澄を見て、それから笑った。香澄自身は至って真面目だった。紙に書かれた「渡したい」という言葉には、無事に渡し終えるところまで含まれていると思ったからだ。
聖子と香澄は原紙をしまい、待ち合わせに関する相談として必要な範囲だけを残りの二人に伝えた。机を囲むと、公太郎は早々に方眼帳を開いた。描いたのは地図ではなく、兎の耳が取っ手になった木製の持ち運び箱だった。
「中に容器を入れて、底に氷を置ける棚を作ります。記念日の贈り物なら、箱も立派にしたいです」
「氷が溶けたら木が濡れませんか」と香澄が尋ねる。
「防水の内箱を作ります。二重にして、蓋も厚くして――」
「それ、果物より箱のほうが重くならない?」
湊斗が柔らかく口を挟んだ。公太郎は方眼帳を見下ろし、取っ手の高さを測り直す。
「……重いですね。でも、軽くする方法を考えたいです」
「考えるのはいいけど、その前に確認しておこう」と湊斗は続けた。「僕たち、誰の記念日か知らないし、知る必要もないよ。本人を探して箱を渡すつもりなら、そこはやめよう」
「探してはいません。見つかったときに備えているだけです」
「それがもう、少し探しに行ってる気がする」
公太郎は苦笑して鉛筆を置いた。聖子も『応援隊』と書きかけた紙を裏返す。香澄は、湊斗が怒らずに線を引いたことに気づいた。誰とでもうまく話せる人の「やめよう」は、強い声でなくても伝わる。
「この紙は用途から外れていませんか」と香澄は尋ねた。「意見箱は迂回路の気づきを集める場所です」
「閉まる間、どこで会えばいいか。道と待ち合わせの場所に困っているのよ」と聖子が答える。「ただし、記念日の内容は記録に写さない。そこは本人の話だから」
香澄は赤ペンを取り、『夜に川向こうへ行く人が、待ち合わせの目印を必要としている』と作業用の紙に書いた。特別な事情を削ったのに、必要な問題は残った。
彼女はこれまで、橋を渡る理由を配送、通勤、買い物の三つに分けて考えていた。どれも時刻と距離で説明しやすい。けれど、会いたい人に何かを食べてもらうために渡る人もいる。昼間なら翌日にすれば済むと、決めつけるわけにはいかない。
「私、さっき『保存状態が先』って言いましたけど、待ち合わせをしたい気持ちを後回しにしていました」
「保冷の話は大事だよ」と湊斗は言った。「でも僕らができるのは、果物を運ぶ代わりじゃなくて、通れる道を分かるようにすることだね」
昼過ぎ、四人が前回撮った写真を広げていると、作業室の利用者が机の脇で足を止めた。聖子が地図を大きく印刷する相談をしていると知り、何気なく話し始める。
「うちにも夜勤の家族がいるんです。帰る時間が違うから、どこなら少し顔を合わせられるか、たまに考えるんですよ」
その人は地図の曲がり角を見て、「場所の名前だけじゃ、慣れない道では待ち合わせにくいですね」と付け加えた。聖子は礼を言い、案内の文字の大きさについてだけ意見を聞いた。名前も勤務先も尋ねなかった。
利用者が別の机へ戻ったあと、公太郎が小声で言う。
「さっきの紙の人だったりして」
「分かりませんし、確かめません」と香澄は答えた。「家族に会いたい人と、記念日に果物を渡したい人が、別々にいてもおかしくないでしょう」
「それもそうですね。町には、僕が作れる数より多くの箱が要りそうだ」
「箱の数ではなく、道の数を考えてください」
午後のうちに、四人は東橋の両側をもう一度歩いた。調査のための歩行は明るい時間の公開歩道に限り、夜に誰かを案内する約束もしない。前回記録した二つの分岐を確かめ、階段を避ける長い道から東橋へ出られることを、写真と順番で照らし合わせる。
橋を渡った住宅側には、歩道に面した小さな町の広場があった。香澄は入口の位置を写真に収め、聖子は管理窓口へ電話して、広場が一般に開放され夜間も入口を閉めない場所であることを確かめた。灯りの具合までは保証されないので、夜間の安全性を断言する文章にはしない。
「ここなら『東橋を渡った先の広場入口』と書けるね」と湊斗が言った。「目印は建物の店名じゃなく、動かない場所にしよう。店が閉まっても説明は変わらないから」
「ベンチの前では駄目ですか」
「ベンチがいつも空いているとは限らないし、座っている人の邪魔になるかもしれない」
公太郎は方眼帳のベンチに描いた兎を消し、広場の入口に小さな丸を付けた。聖子は地図を外に貼る前に町の公式な迂回案内と区別しておく必要があると言い、まず作業室内で使う参考資料にすると決めた。
戻って印刷した試作には、白環橋は工事中の十四日間通れないこと、東橋を通る公式の迂回経路、階段のある短い道と階段を避ける長い道を別々に記した。写真には撮影した場所と向きを添え、『待ち合わせの場所の例:東橋の先の公共広場入口』と控えめに加える。飲食店の開店時間も、夜の明るさも、確認していない数字は書かなかった。
「『恋の橋を渡るふたりへ』では駄目かしら」と聖子が名残惜しそうに聞く。
「その見出しだと、仕事帰りの人が自分には関係ないと思います」
「分かったわ。『東橋への道と、目印になる場所』にしましょう」
聖子は意外なほど素直にペンを置いた。華やかな言葉を諦めたのではない。知らない誰かが自分の事情を人前で説明せずに済むよう、見出しを選び直したのだ。
閉室の準備をしながら、公太郎は木製の箱の設計図をもう一度見た。試しに材料の重さを書き込むと、空の状態でもかなりの重量になる。
「これを持って東橋まで行くなら、途中で記念日が翌日になりますね」
「普通の保冷バッグで十分では」と香澄が言う。
「分かってます。でも、いずれ軽い持ち運び用の木製トレイを考えます。今度は使う人が最初です」
湊斗は笑い、香澄もつられて口元を緩めた。作業室の引き出しには、フルーツサラダの紙が原紙のまま収まっている。兎に差し込まれていた最初の『勇者係へ』の紙とは、文字の形も筆圧も違っていたように思う。けれど香澄はそれを手掛かりとして書き留めなかった。比べて人を当てることが、ここの仕事ではない。
紙を渡したい相手に届けられるか、四人には分からない。新しい地図を読む人がその誰かなのかも、分からない。それでも、約束の時間に迷わず歩ける選択肢を一つ増やすことならできる。香澄は印刷した地図を揃え、誰の記念日か知らないままでよかったと思った。




