第3話 地下室の窓は受付ではありません
その翌日、川辺作業室の地上入口には、まだ何も置かれていなかった。代わりに聖子が、玄関の床へ紙の四角を二つ貼っていた。
「小さいほうが意見箱。大きいほうが、私の理想の意見箱です」
「理想のほうは人が入れますね」
香澄が靴を脱ぎながら答えると、聖子は大きい四角を名残惜しそうに剝がした。
「施設を管理する担当の人には、さっき確認できたわ。開室中に限って、入口の内側へ小さな箱と説明を置いていいって。避難の通路を塞がず、閉室時は片づけることが条件よ」
聖子は電話で確かめた内容を手帳に書き留め、香澄にも見せた。何を置くかだけでなく、どこまで引き受けてよいかを先に決めるつもりらしい。昨日までホワイトボードに会の名前を書きたがっていた人とは思えない、と香澄が言うと、聖子は「褒めるなら、もっと素直に」と笑った。
公太郎はすでに、木工修理店から持ってきた箱を机に置いていた。昨日地下で見つけた壊れた箱は使わず、新しい板で組んだ小ぶりなものだ。蓋には細い投函口があり、四隅には鉛筆で丸みの印が付いている。
「手をぶつけないように角を落とします。誰でも安心して触れる箱にしたいので」
「見た目より先に、置ける大きさを確かめよう」と湊斗が言った。
四人は箱を玄関へ運び、扉を開閉してみた。壁際の棚の上なら通路を塞がない。湊斗は外から来る人の目線で説明を読む高さを確かめ、聖子は箱が落ちないよう滑り止めを敷いた。公太郎だけが箱を斜めから眺め、「耳があったほうが親しみやすい」と呟く。
「兎はもう作業室にいます。箱まで兎になる必要はありません」
香澄が即答すると、公太郎は鉛筆で描きかけた耳を消した。
そのとき、地下室のほうから湿った木の匂いが上がってきた。扉は閉まっているのに、香澄は昨日見た川側の窓を思い出した。水位の跡が残るあの壁を、誰かに説明しなければならない気がする。
「ところで、窓に投函口を付ける案は完全に取り消しでいいのね」と聖子が尋ねた。
「はい。川側は足場が悪いし、建物の外から地下の窓へ近づいてもらう理由もありません」
公太郎は迷わず答えた。「届く瞬間を見られる仕掛けが面白いと思ったんですけど、入れる人が危ないなら、面白くないです」
香澄はほっとした。地下室の窓は、昔の出来事を思い出させる。それと、これから道に困る人の声を受け取る場所とは、分けておけばいい。
「では、貼り紙です」
香澄は印刷店で作った案内文の初稿を机に広げた。太字の見出しは『迂回路意見受付』。その下に、短く二行を配してある。
『私情は不要。命の保証なし。』
読み上げた聖子の手が、湯飲みの上で止まった。
「正確にしたい気持ちは分かるけど、これを読んだら帰りたくなるわ。あなた、入口で人を追い返す仕事を始めるつもり?」
「個人的な事情は書いてほしくないですし、緊急の救助には対応できません。書いた内容は間違っていません」
「間違っていなくても、伝わらなければ同じだよ」と湊斗が言う。「どんな情報なら必要なのか、何には応じられないのか。それを別々に書こう」
香澄は腕を組んだ。言葉を柔らかくするたび、責任の範囲が曖昧になる気がした。けれど湊斗は、彼女の紙を捨てず、二行の間へ鉛筆で線を引いた。
「『迂回路の不便を匿名でお知らせください』。これが一つ目。『緊急の助けを求める窓口ではありません』が二つ目。事実は何も減ってない」
「氏名と連絡先を書いてもらったら、返事が必要だと誤解されます」
「それも書こう。病気やけがの詳しいことだって、ここには要らないよね」
「医療情報、ですね」
香澄が赤ペンを取ると、聖子が隣でうなずいた。公太郎は箱に合う用紙の大きさを測りながら、二人のやり取りを聞いている。
「紙を集めたあと、どうするんですか」と公太郎が尋ねた。
聖子は手帳の新しいページを開いた。箱を開けるのは開室を管理する聖子と、記録を手伝う香澄の二人。原紙は鍵のかかる引き出しで保管し、内容をそのまま掲示したり動画に載せたりしない。個人が推測できそうな事情が混じっていたら、その部分は使わず、道の状態として確かめられる点だけを整理する。町の担当窓口へは、確認した場所と不便の種類を伝える。
「受付は橋が正式に開くまで続けるつもり。終わったら三十日間保管して、原紙を裁断する。先に書いておくわ」と聖子が言った。
「橋が開く日が予定どおりとは限りません。工事が終わって安全確認も済んだ、そのあとです」と香澄が補足する。
「それも明記しましょう。あなたの訂正は、時々とても助かるのよ」
聖子が微笑むと、香澄は返す言葉を探した。人の間違いを指摘して礼を言われるのは慣れているが、言い方を直した自分まで認められるのは、少し落ち着かなかった。
清書した掲示には、用途と注意に加えて『開室日の午前十時から午後五時まで』と記した。閉室時は投函できないこと、急ぐ場合には公的な連絡先を利用してもらうことも添えた。聖子が大きく『あなたの声が未来の橋を変える!』と書き足しかけ、香澄に赤ペンを渡された。
「橋の工事は変えません。声を聞いて、道の分かりにくさを伝えるだけです」
「分かったわ。目立つ見出しは『迂回路についての気づき』にする。……ずいぶん地味ね」
「読めるなら、地味で結構です」
その横では、公太郎の箱も仕上がりに近づいていた。四隅を丸く整えるのに夢中になり、投函口の両端にも半円形の木の縁飾りを付けている。試しに用紙を差し込んだ湊斗の手が止まった。
「これ、紙が入らないよ」
「そんなはずは。手を傷つけないよう、全部丸くしたんです」
公太郎が自分で試すと、左右から張り出した縁飾りが紙の幅を塞いでいた。無理に押せば、せっかく印刷した注意書きの裏で紙が折れ曲がる。
「投函口にまで頬を付けたみたいですね」と香澄が言う。
「兎の顔のことを考えて削ったら、こんなことに……」
公太郎は悔しそうに口を結んだが、すぐ定規を取り出した。「紙の幅に合わせ直します。角を丸くするのは、入れられることを確認してからですね」
木屑を掃き終えたころには、箱は飾りの少ない、使いやすい形になっていた。公太郎は完成した投函口に紙を何度も通し、今度こそ満足そうにうなずいた。
夕方、聖子が開室中の玄関に箱と掲示を置くと、外で工事のお知らせを見ていた人が足を止めた。掲示をひと通り読んでから、備え付けの小さな紙に何かを書き、折って入れていく。四人は誰が何を書いたのかを見ようとはせず、室内で机を片づけ続けた。
閉室前、聖子と香澄が初めて箱を開いた。紙は一枚だけだった。名前も、返事を求める言葉もない。
『東橋へ行くとき、暗いところで分岐がわからなかった。』
「橋のことじゃなく、途中の角のことね」と聖子が言った。
「どの角かは、これだけでは分かりません」
香澄はもう一度、町の迂回図を広げた。昨日見た、階段を含む道と、階段を避ける道が重なるところに指を置く。湊斗はその近くを通る配送経路を思い返していた。
「想像だけで場所を決めないほうがいい。明るいうちに、表示がどこから見えるか歩いて確かめよう」
香澄は紙の言葉を、勝手に詳しく書き換えかけて手を止めた。分からないところは、分からないまま確かめに行けばいい。間違っていることを指摘するより、少し手間はかかる。それでも、その手間の先に、まだ会ったことのない誰かが歩く道があった。




