第2話 兎の底の、五年前
翌朝、香澄が川辺作業室に入ると、聖子はホワイトボードの前で最後の一文字を書き終えたところだった。
『真夜中の橋・勇者係設立準備会』
黒い文字は三行にわたり、最後の「会」だけが窮屈そうに縮んでいる。
「これなら、何をする集まりか一目で分かるでしょう」
「分かるのは、存在しない係を設立しようとしていることだけです」
香澄は「勇者係設立」に線を引いた。聖子が文字の前に手を差し出す。
「ちょっと待って。昨日の動画、もう商店街の人も見ているのよ。せっかく人の関心が集まっているんだから」
「間違った情報で集めた関心を増やす必要はありません。今日は兎のことと、工事の案内のことを話すんですよね」
「そのとおり。じゃあ、名前はあとで決めましょう」
決める必要もない、と香澄は思ったが、聖子が準備した温かいお茶を見て、ひとまず椅子を引いた。
作業室は、古いポンプ所を改修した建物の地上階にある。壁には聖子が独学で作った催しの案内が並び、机の中央には、公太郎が布袋ごと持参した兎が座っていた。
「昨日、底の文字の話を聞いて、朝から調べました」
公太郎は柔らかい筆で木肌のほこりを払い、照明を斜めに当てた。香澄も顔を近づけた。昨夜は一部分しか読めなかった細い線が、今はつながって見える。
『君は勇者だった』
「全部で、こう書いてあります」
公太郎が読み上げると、香澄は胸の奥を指先で押されたような気がした。湊斗の方を見るつもりはなかったのに、視線が動く。彼は兎を見つめたまま、左手で湯飲みを持ち上げた。
「公太郎さんが書いたんですか」と香澄が尋ねる。
「僕の字じゃないです。これは五年前、ここの木工講座で作った兎なんですよ。ほかにも狐とか鳥とか、いろいろ彫って持ってきました」
公太郎は耳の角度を説明しかけて、聖子に「先に文字の話ね」と促された。
「あのときは出来上がった動物を並べて、皆さんに見てもらったんです。誰がどれを手に取ったかは覚えていません。僕は箱にしまう係で」
「五年も前なら、そうでしょうね」と聖子が言った。
「倉庫から出したときも底は見なかったの?」
「兎の顔のほうばかり見てました。欄干に付けるのは二度としませんけど、耳の角度はやっぱりよくできてると思います」
香澄は呆れたが、兎の顔を見れば、言いたいことも少し分かった。誰かに見てほしくなるほどの手間が、丸い頬に残っている。
「書いた人を探します?」と公太郎が続けた。
「探しません。元の持ち主が分からないうちは、展示もしないでください」
香澄がそう答えると、聖子は兎の下に清潔な布を敷き、作業室の棚の内側へ移した。文字のある底は見えない向きにする。
湊斗はその動きを確かめてから、机に広げられた工事の資料へ目を落とした。
「昨日の紙の人が本当に困っているなら、こっちを読むほうが先だと思う」
聖子が町の公開資料から印刷した工程表を配った。白環橋の補修は十九日後に始まり、十四日間、昼夜を問わず通れない。工事が終われば安全確認のあとで通行再開となる。香澄の勤務する印刷店にも、同じ日程の知らせが届いている。
「『夜の橋をなくさないで』というお願いを読んでも、工事を止めてもらう相談にはできないわね」
「橋を使う理由や、代わりの道が不便な理由なら、聞けるかもしれません」
香澄は資料の地図を指でなぞった。白環橋から川沿いを上流へ進み、およそ六百五十メートル先の東橋へ向かう。途中で二本に分かれた線が、狭い紙面の上ではほとんど重なっていた。
「ここ、どちらへ行っても東橋には着くんですよね」
「着くよ。ただ、片方には階段がある」
湊斗が二本の線を指した。近いほうは階段を下りて遊歩道へ抜ける。もう片方は遠回りだが、階段を避けて歩ける道だ。凡例にはそれぞれ違う記号が付いているものの、縮小された紙では判別しにくい。
「昨日、配送の手配先からも問い合わせがあったんだ。荷物を運ぶ人が階段の入口へ行ってしまったら、着くかどうかより、戻れるかが問題になる」
「でも、町の地図にはちゃんと描いてあります」
香澄は地図を見直す。違いを知ってからなら読めるが、初めて見たら短いほうを選んでいただろう。
「迂回路があることと、誰にでも読めることは別なんだね」
湊斗の言葉は穏やかだった。香澄は反論する代わりに、印刷物の余白に「階段あり」「階段を避ける」と書いた。文字を大きくしようとして、今度は矢印の場所がなくなる。普段の校正なら一字ずつ整えれば済むのに、誰がどんなふうに歩くかまで、一枚に押し込むのは難しい。
「だったら、困っている人の声を集めましょう!」
聖子が先ほど消された部分の下へ、大きな丸を描いた。
「『勇者係への相談、絶賛受付中』と貼れば、目立つわよ」
「設立もしていない係の窓口を増やさないでください。しかも私たちでは、道路の案内板も直せません」
「じゃあ、受け取ったことを町の担当窓口に伝えるのは?」
香澄はすぐに否定しかけたが、止まった。知らない人の手紙を勝手に広めるのは違う。それでも、道の分かりにくさだけを確かめて伝えるなら、できることはありそうだった。
「何を集めるか、どこに置くか、誰が読むか。先に決めてからです」
「それ、もう立派な会議の議題ね」
聖子は嬉しそうに笑った。ボードの題だけは、まだ消されない。
公太郎が「地下の物置に古い箱があったはず」と言い出した。聖子が鍵を開け、四人で下りる。備品置き場の川側に、横長の窓があった。
香澄は段を降りきったところで足を止めた。窓の脇、塗り直した壁の下から、古い水の跡が細い筋になってのぞいている。五年前の夏に見た、窓いっぱいの濁った色が一瞬だけ重なった。
「香澄?」
湊斗が呼ぶ。香澄は答えようとして、喉の奥で言葉を見失った。何年経っても変わらない跡があるのだと気づいたことを、彼の前ではまだ説明できない。
「……箱を探しましょう。今日はそれをしに来たんですから」
棚には古い印刷用紙の束と、蓋の壊れた木箱があった。公太郎は箱を抱え、窓を眺めると急に目を輝かせた。
「ここを投函口にして、木の滑り台を付けたらどうでしょう。川辺からお手紙が届くんです」
「外は足場もよくないし、地下室の窓は施設の設備よ。勝手には変えられません」
聖子の返答は、今日初めて名前を付ける余地のないほど短かった。公太郎は箱をそっと床へ戻した。
「そうか。届くのが面白くても、入れに来る人が危なかったら意味がないですね」
「それに、投函のために夜ここへ来てもらう必要はありません」と香澄が加える。
地上へ戻ると、聖子は玄関内側の空いた棚を指さした。開室中だけ使う箱なら、ここに置く案を検討できる。利用条件を確かめ、管理上の承諾を取ってから決めよう、と彼女は手帳に書き込んだ。
「今日は名前より先に、置いていい場所を調べます」
ようやく聖子がボードの題を消したので、公太郎は残った白い面に小さな兎を描いた。その下に、香澄が「工事中の道について」と書き足す。
窓の跡を思い出すたび、胸にはまだ言葉にならないものが残った。それでも香澄は、二本の道が重なって見える地図をもう一枚、印刷店へ持ち帰ることにした。困っている誰かを探す前に、まず分かりにくい線を分かるようにする。その仕事なら、今日から始められる。




