第1話 真夜中の橋に勇者係はありません
香澄が白環橋に着いたのは、印刷店のシャッターを下ろしてから三十分ほど経った夜だった。
灯川町の商店街は九時を過ぎると静かになる。川の上では風が強く、店で印刷したばかりのチラシの予備が鞄の中でかさかさ鳴った。明日の朝に配る「白環橋補修工事のお知らせ」である。校正を三度したので、日付も迂回路も一字残らず覚えていた。
そのせいで、欄干にぶら下がる妙なものを見過ごせなかった。
木彫りの兎だった。手のひらほどの大きさで、長い耳の片方が少し前に傾いている。腰には綿の紐が巻かれ、歩道側の欄干に結びつけられていた。腹のあたりには細長い隙間があり、折りたたんだ紙がのぞいている。
「橋を飾る許可、誰が出したんでしょう」
香澄は口にしてから周囲を見た。返事をする人はいない。川向こうの住宅の窓が何枚か明るく、橋の下からは水音がするだけだった。
兎には触れず、身をかがめて紙の文字を読んだ。
『勇者係へ。夜の橋をなくさないで』
そのすぐ横には町の工事予告が貼られている。開始日は二十日後。床板と手すりを補修するため、十四日間、昼も夜も全面通行止め。東橋を通る迂回路の地図まで載っていた。
「なくなりません。直して、また通れるようにするんです」
誰に説明するでもなく言って、香澄はもう一度兎を見る。よく彫られた鼻先は、まるでこちらの返事に納得していないようだった。
「それに、勇者係なんていません」
「何の係?」
背後で声がして、香澄は鞄を抱え直した。配送会社の仕事帰りらしい湊斗が、橋の入口に立っていた。薄手の上着を着て、いつもの穏やかな顔をしている。
「存在しない係です」
「説明を聞くほど分からなくなるね」
香澄は兎と工事予告を指さした。湊斗はまず予告の日付を確かめ、それから木彫りへ視線を移した。ほんの一瞬、右手を上着のポケットへ入れる。その仕草を見たとき、香澄は急に、目を合わせる場所が分からなくなった。
五年前から、二人はそうだった。会えば挨拶はする。仕事の連絡もできる。ただ、昔から知っている相手にするには、どこか不自然なほど礼儀正しかった。
「その紙、誰が入れたんだろう」
「分かりません。でも、橋が永久に消えると思っているなら訂正しないと」
「夜に通れなくなるのが困る、という意味かもしれないよ」
「それなら、そう書けばいいのに」
湊斗は答えを急がなかった。川沿いの道から自転車を押した人が一人、こちらへ来る。片手の携帯電話が兎の方を向き、すぐに香澄の方へ向いた。
「さっきの、もう一回言ってもらっていいですか。勇者係っていうの、面白いから」
「勇者係なんていません。面白い話じゃありません。ここは公共の橋ですし、通行止めの期間も正確に――」
「香澄」
湊斗が横からやんわり声を挟んだ。
「係があるわけじゃないけど、道が分からない人には案内くらいできる、ってことだよね」
「私はそこまでは言ってません」
自転車の人は「なるほど」と笑い、短い動画を撮ったまま去っていった。香澄には、何を納得されたのかさっぱり分からない。
「今の言い方だと、係がありそうです」
「ないって先に言ったよ」
「そのあとが長いんです」
「長かったかな」
「短い言葉で誤解させるより、長くても正確な方がいいです」
香澄が胸を張ると、湊斗は小さく笑った。以前なら、こうした言い合いのあとに彼が何か言い返してくれただろうか。考えかけて、香澄は鞄から携帯電話を取り出した。
兎が風に揺れるたび紐がきしむ。誰のものでも、欄干に付けたままにしてよい物ではない。香澄は工事予告に記された町の問い合わせ先へ、写真と場所を添え、確認を求める連絡を送った。
「持ち主が分かったら、自分で外してもらいましょう」
「心当たりがあるよ。耳の彫り方が、あの人の兎に似てる」
湊斗が名前を出すより先に、香澄にも思い当たった。木工修理店の公太郎だ。作品を作ると細部に凝りすぎ、客から頼まれた棚の取っ手にまで森の小動物を彫ろうとする青年である。
電話をすると、公太郎は三回目の呼び出しで出た。
『兎ですか? 耳が片方だけ前を向いているやつ?』
「そうです。橋に結びつけましたか」
『はい。工事の前に、毎日通る人に見てもらえたらと思って。橋の向こうからでも目が合う角度にしたんです』
「それは立派な無断設置です」
『……今、外しに行きます』
公太郎は十分ほどで駆けてきた。仕事着の上から慌てて羽織った上着の袖に木屑がついている。息を整えるより早く兎の傾きを確認し、「やっぱり、もう少し頭を上げればよかった」と呟いた。
「反省する場所が違います」
「そうですね。橋に勝手に付けて、すみません」
公太郎は真面目な顔に戻り、二人と、そこにいない管理者にも頭を下げた。紐をほどくと、兎は思いのほか軽かった。香澄は公太郎の手元に置かれた紙を示す。
「これもあなたが?」
「え、何ですか。腹に隙間は作りましたけど、紙を入れた覚えはないです」
彼は兎を裏返したり傾けたりした末に、紙が落ちないよう慎重に取り出した。やはり『勇者係へ』と書かれている。公太郎は首をかしげ、兎と紙を一緒に自分の布袋へしまった。
「展示したあとで、誰かが入れたんだと思います。僕が付けたのは夕方だから」
「夕方から今までの誰か、ですね」
香澄が言うと、湊斗は「探すの?」と聞いた。
「いいえ。書いた人が名乗っていない以上、こちらが勝手に探す理由はありません。ただ、夜の橋をなくさないで、という困り事は残ります」
言い切ってから、香澄は自分でも少し驚いた。言葉の正確さだけに腹を立てていたのに、湊斗の指摘がいつの間にか頭の中に残っている。
そのとき三人の携帯電話が、ほとんど同時に鳴った。
川辺作業室を管理する聖子から、短い動画へのリンクと長い文章が届いていた。
『たいへん! 真夜中の橋に、非公式の勇者係が結成されたことになっています! 明日、作業室で緊急に顔を合わせましょう。兎の扱いと、工事のお知らせの伝え方を話したいの』
画面には、さっきの自転車の人が撮ったらしい動画が映っていた。香澄の「勇者係なんていません」のあとに、湊斗の「案内くらいできる」が続く。付けられた短い説明には『灯川町の非公式勇者係、誕生?』とある。
「誕生してません」
香澄は文字に向かって言った。公太郎は動画に映った自分の兎を見つけ、嬉しそうに拡大しかけて、香澄の視線に気づいて手を止めた。
「明日、僕も行きます。勝手に飾ったことはちゃんと説明します」
「僕も時間を調整するよ」と湊斗が言う。「変な話になったままだと困るし」
香澄は了承の返事を打った。動画に映る自分の声は、いつもよりひどく冷たく聞こえた。正しいことを言ったはずなのに、誰かが困っているかもしれない夜の橋で、真っ先に言うべきだったのはあれではなかったのかもしれない。
公太郎が布袋の口を閉じようとしたとき、兎の底が街灯の下にのぞいた。長く保管されていた木肌に、鉛筆らしい薄い線がある。
「ちょっと待ってください」
香澄は身を寄せた。紙ではなく木に直接書かれた、消えかかった文字だった。
端の方だけ、どうにか読める。
『……勇者だった』
心臓が一つ、余計に打った気がした。
湊斗が「どうしたの」と尋ねる。香澄はすぐには答えられず、布袋の中の兎を見つめていた。橋の工事のお知らせなら、何度でも正しく説明できる。けれど、その文字を知っている気がする理由には、まだ名前を付けられなかった。




