130 軍神の耳と、男たちの傲慢! 歪んだ男尊女卑の闇が招く、国家崩壊の幕開け
ステンドグラスから差し込む厳かな光の中、教会で一心に祈りを捧げる一人の女性がいた。彼女が祈りを捧げる対象は、慈悲の神ではない。血と鉄の臭いが染みついた「戦いの神」である。
引き締まった一流アスリートを思わせる無駄のない身体に、触れれば切れそうなほどに凛とした、冷徹なまでの雰囲気を纏うその女性。容姿端麗でありながら、艶やかなストレートの長い髪を高くアップにしてまとめ、機能性を重視した麗しい男装に身を包んでいる。
彼女の名はヴァイシュラ。
大陸北西部において恐れられ、同時に崇められる大国家「エチラル王国」の女王である。
「ヴァイシュラ様、そろそろ定例御前会議のお時間で御座います」
背後から近づいた使用人が、畏まりながらもどこか事務的な声で声を掛ける。
「……もうそんな時間か。分かった」
ヴァイシュラは低く、心地よく響く声で短く応じると、戦神の彫像から静かに目を離し、王都の教会を後にした。
もともとヴァイシュラは、エチラル王国の有力な公爵家の長女として生を受けた。当時の国情は最悪の一言。先代の国王が急逝したのを引き金に、欲深い者たちの権力闘争による内乱が勃発。国土は焦土と化し、国内は完全に荒れ果てていた。
その血で血を洗う戦いの中で、ヴァイシュラの父も、前線に立った兄たちも全員が戦死。さらに国王の血を引く男児たちも内乱の暗殺の連鎖に巻き込まれて絶滅した結果、皮肉にも「王位継承権の最も低かった女」であるヴァイシュラに、消去法で王冠が回ってきたのである。彼女にとっては、文字通り望まぬ王位であった。
ところが――男たちの貴族社会が、ただの「飾り物の神輿」として彼女を玉座に据えた途端、戦況は一変した。
戦場に立ったヴァイシュラは連戦連勝。ただの一度も敗北することなく、瞬く間に狂った国内の内乱を平定してみせたのだ。
彼女が自ら振るう圧倒的な個人の武力、柔軟にして神憑り的な采配の妙。人々は畏怖を込めて彼女を『軍神』と呼び、いつしかエチラル王国は『軍神の国』として周辺国にその名を轟かせることとなった。
だが、その奇跡的な勝利の背景には、ヴァイシュラが持つ固有スキルの一つである『軍神』の補正が大きく関わっていることを、愚かな男たちは知る由もなかった。
内乱終結後も、ヴァイシュラはその圧倒的な武力と、一切の不正を許さない清廉潔白さで国を治めた。その高潔さを頼り、近隣の弱小国や周辺の領地から救いを求める声が上がれば、彼女は自ら兵を率いてその地を救援した。
周辺の国々からすれば、強大で強欲な男の王が治める国に侵略されて蹂躙されるより、清廉潔白な『軍神』ヴァイシュラの庇護下に入る方が遥かに安全だった。
結果として、多くの国が自らエチラル王国の従属国や従属領となることを選び、国力は膨れ上がった。
その連鎖により、エチラル王国は今や、周囲の諸国を大きく上回る圧倒的な大国家へと急成長を遂げていたのである。
「――ええい、あの忌々しい小娘め。さっさと玉座から引きずり下ろしてやりたいわ」
主君である女王ヴァイシュラが到着する前の会議室。重厚な円卓を囲む重臣の男たちは、すでに隠すこともせずに傲慢な毒を吐き散らしていた。
「全くですな。あの女、あまりにも清廉潔白すぎて反吐が出ますわ。本来、我らのような重臣の地位に就けば、従属国からの膨大な貢ぎ物や賄賂で蔵が建つはず。それなのに、あの女が目を光らせているせいで、国から定められた雀の涙ほどの給金しか手に入らん」
「ああ。従属国や従属領からも必要最低限の税しか上納させていないというではないか。我らのような大国が守ってやっているのだから、本来ならもっと絞り尽くして、我々の懐にも相応の金が流れてくるのが『正しい社会の仕組み』というものだ」
一人の侯爵が不満げに鼻を鳴らすと、隣の老齢な伯爵がニヤニヤと蔑むような笑みを浮かべた。
「ふん、そもそも内乱のドサクサ紛れとはいえ、たかが『女』ごときを王位につけたのが、すべての間違いだったのだ。女の浅知恵で綺麗事ばかり並べおって。男の我らが、なぜあの細い腰つきの小娘に頭を下げねばならんのだ」
「まあ、間違いとまでは言うまいよ。戦うことしか能のない、ただの『便利な雌犬』としては最高に役に立ったからな。あの武力のお陰で、国はこれほどまでに大きく、豊かになったのだ。道具としての価値は認めてやろう」
「だが、ここまで国が大きくなれば、もうあの女の役目は終わりだ」
「その通り。周りに我らエチラルに逆らえる国など、もうどこにも存在せん。これだけの巨大な国家だ、兵力も男の兵たちが十分に育っている。あの女が前線に立たずとも、今後どこと戦争になろうが負けることなどあり得んのだよ」
いつものように、男たちの醜い嫉妬と女性蔑視が混ざり合った陰口が囁かれる。しかし、今日の密談はいつもより一歩、踏み込んだ内容へと進もうとしていた。
「ふふふ……どうだろうな、皆の者よ。これほど大きくなった果実を、いつまでもあの女に独占させておく必要もあるまい。……そろそろ『女王』には、その身の丈に合わぬ王位を、我ら男の手に返上して貰おうではないか」
その言葉の主は、ヴァイシュラの親族であり、重臣たちの筆頭に君臨する叔父の公爵であった。その提案に、会議室の男たちの目が一斉にギラリと悪辣に輝いた。
「おお……! それは素晴らしい!」
「公爵様が、真の男の王として玉座に就いていただけるのであれば、我ら重臣一同、何一つ文句はございませんな!」
「ご尤も! これでようやく、真っ当な国に戻るというものだ!」
「いや全く、戦場での実績があるからと、たかが『女』に上から命令されるのは、毎度毎度ムシズが走るほど不愉快でしたからな。女は男の足元で傅き、子供を産んでいれば良いのだ」
会議室にいるすべての重臣たちが、下卑た笑い声を上げながら満場一致で賛同する。
このエチラル王国を蝕む根深い男尊女卑の文化において、どれほど国を救い、領土を広げた『軍神』であろうとも、彼らにとってヴァイシュラは「男より格下の女」でしかなかったのだ。
――そして、いつもの陰口も、今日の邪悪な密談も。
そのすべてを、ヴァイシュラは教会の帰り道の廊下で、一言一部漏らさずに『耳』にしていた。
それは、彼女が隠し持つもう一つの固有スキル『多聞』によるものだった。ヴァイシュラが誰にも明かしていないこの秘密のスキルは、一定の範囲内にいる人間の「声」や「本音」を、壁を透過して明確に聞き取ることが出来る。
男たちの醜悪な言葉を脳内に直接響かせながら、ヴァイシュラは歩みを止め、ただただ深い、深い溜息をついた。
胸を締め付けるのは、怒りよりも、言葉にできないほどの圧倒的な「うんざり感」だった。特に今日の密談には、呆れを通り越して、残念で、悲しい気持ちが泥のように心を侵食していく。
(……やはり、変えられなかったか)
彼女がどれほど命を懸けて戦場で血を流しても、どれだけ国を豊かにしても、この国の男たちは心の中では彼女をこれっぽっちも評価していない。法律をいくら変え、制度を整えようとしても、彼らの根底に潜む「女性蔑視」の思想は改善しない。それはまるで、解けることのない呪いのように、この国の貴族たちの魂を腐らせ、蝕んでいるのだ。
「もう……いいな。私は十分に役割を果たした」
ヴァイシュラは冷徹に感情を殺すと、おもむろに会議室の重厚なドアを開け放った。
――バァン! と扉が響く。
その瞬間、先ほどまでの卑しい会話が嘘のように消え失せ、重臣たちは顔を強張らせながら一斉に椅子から立ち上がった。彼らは顔に貼り付けたような、わざとらしい臣下の笑みを浮かべてヴァイシュラを出迎える。
「これはこれは、ヴァイシュラ様。お待ちしておりました」
「ご苦労、着席を許す」
ヴァイシュラは部屋の入り口から一歩も動かず、冷たい声で男たちを着席させた。そして、円卓に座る重臣たちの顔を、憐れむように一人ずつ見回していく。
男たちは、まさか自分たちの企みがすべて筒抜けになっているとは夢にも思わず、哀れな女をいつハメてやろうかと、腹の底でニヤニヤと笑っている。
その醜い顔の数々を見届けたヴァイシュラは、フッと冷たい美貌に、一切の未練のない清々しい笑みを浮かべて言い放った。
「――私は本日をもって、王位を返上し、引退する。あとの国政は、お前たち『優秀な男たち』だけで、好きにするが良い」
「「「……え?」」」
男たちが呆然と凍りつく中、ヴァイシュラは何一つ惜しむことなく即座に踵を返し、二度と振り返ることもなく、静かに会議室を後にした。
軍神という絶対の盾を自らの傲慢さで失ったエチラル王国が、この後どのような破滅を辿るのか――それを知る者は、まだこの部屋には誰もいなかった。




