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第5話:優しさに触れる

(あれ…ここは…どこ?)


 耳を打つのは、遠くで鳴く小鳥のさえずりと、壁に掛けられた時計が刻む規則正しいリズムだけ。

 清潔なシーツには石鹸のような優しい香りが(まと)っている。

 柔らかすぎる枕に沈み込みながら、私はゆっくりと意識を浮上させた。


(……あれ。私、いつまで寝てた? というか、ここ、離れの客間……?)


 窓から差し込む陽光は、すでに高い位置にある。

 かなりの時間が経過していることに気づき、心臓が跳ねた。

 慌てて飛び起きようとした、その瞬間。


「あぐっ……!」


 全身を電流が駆け抜けたような激痛に、思わず声が漏れ、視界がじんわりと涙で(にじ)んだ。

 昨夜の出来事が、濁流のように脳裏に蘇る。

 実の兄からの無慈悲な暴力。

 そして、私の意図を超えて暴発した『災厄モード』の代償。

 身体中の節々が軋み、筋肉はミキサーにかけられた後のようにズタズタだ。

 指先一つ動かすのにも、鉛のような重みが伴う。


 けれど、痛みに浸っている暇など、私にはないのだ。

 長年ブラック環境で磨き上げられた「社畜根性」が、脳内でけたたましく緊急事態を告げるアラートを鳴らしている。


(……駄目よ、寝てる場合じゃないわ。一週間後の取り調べまでに、自分の潔白を証明するための材料を揃えて、完璧な反論の構成を練らないと。あいつらが証拠を消したり、口裏を合わせたりする前に、一刻も早く動かなきゃ!)


 私は気合を入れるために、痛む手を無理やり動かして自分の頬を軽くぺちんと叩いた。

 震える足でベッドを抜け出し、壁に(すが)るようにして扉へと向かう。

 

 今の私は、薄い寝間着一枚という心許ない格好だ。

 まずは自室から着替えを回収し、今後の作戦を練るための筆記用具を確保しなければならない。


(私一人だけでも、なんとか戦う準備をしないと…!)


 重い扉に肩を押し当て、全体重をかけて押し開ける。


「起きたか。……だが、その格好でどこへ行くつもりだ」

「……お嬢さん、正気か? その体で歩き回るなんて」


 扉の先にいたのは、昨日私を救い出したはずの二人――魔導師団長のシリュス様と、騎士団長のゼノス様だった。


 あまりにも想定外な場所に並び立つ国宝級のイケメン二人に、私の心臓が大きく跳ねる。


「ひっ……!」


 驚きのあまり、膝の力がふっと抜けて体が揺れた。

 それを見たシリュス様が、一瞬の淀みもない動きで私の肩を抱き寄せ、軽々とその腕の中に収めた。

 いわゆる、お姫様抱っこだ。


「えっ、な……っ!?は、離してくださいませ!」

「黙れ。立っていることすらままならぬ分際で。……それほどまでに自らの命が惜しくないのか」


 シリュス様の冷徹な声が頭上から降ってくる。

 至近距離で見つめるその美貌は、磨き上げられた氷細工のように整っていて、直視できないほどの威圧感と美しさを放っていた。


 ――シリュス・アイゼン。


 アイゼン家は古くから魔導に長けた名門中の名門であり、現在は魔石を使った魔導具の加工技術で国随一の地位を築いている。

 没落しかけている我がカデンス家とは比べ物にならないほどの莫大な富を有する一族だ。


 透き通るような銀色の髪は、陽光を反射して発光しているかのようで、吸い込まれそうなアイスブルーの瞳は、感情を排した深い知性を満ちている。

 王立魔導師団の中でも選ばれし最高位の者しか袖を通せない、特別な意匠のマント。

 軍服をベースにしながらも、その純白のマントが彼の気高さを際立たせている。

 腰には氷の結晶をモチーフにした魔石が埋め込まれた杖があり、その立ち姿は神話から抜け出した氷の王子様のようだ。


 簡単に抱き上げられてしまった恥ずかしさと、あまりの美しさに気圧された。

 そして緊張のあまり、彼を見上げた私の瞳は自然と潤んでいた。


「……っ」


 何かを言い返そうとしたが、喉が引き()れて声にならない。

 シリュス様は僅かな間、射抜くような眼差しで私を凝視している。

 その沈黙に耐えきれず、私は思わず視線を逸らす。


(……む、無理ぃ〜〜っ!!無理無理!!!ゲームの中とリアルは違うんだって! 人生で全く恋なんてしてこなかった社畜の私には、こんな異性との超密着イベント、どう対処していいか分からないのよ!)


 私はそのまま、逃げ出す隙も与えられない安定した腕力で運ばれ、ゆっくりとベッドへと強制送還された。


「……着替えを取りに行こうとしただけですわ。それに、今後の計画を立てるために筆記用具も……。身の回りのものを整えてくれる者は、ここにはおりませんから」


 何とか言葉を搾り出そうと、シーツを握りしめたまま私が答えると、二人は同時に眉間に深い皺を刻んだ。

 シリュス様が、静かな、しかし有無を言わさぬ圧力を持って問いただす。


「……身の回りの世話をする者もいないだと? カデンス公爵家は、一体何を考えている」

「……第一夫人であるセレーナ様の判断ですわ。私みたいな無能に使用人をつけるお金があるなら、優秀な兄様たちや家のために回すべきだと……。私のような立場の者には、当然の判断だと思います」


 どうしようもない事実として淡々と語ると、部屋の空気が一気に凍りついた。


 シリュス様の眉間の皺が一段と深まり、その瞳は鋭利な刃物のような冷たさを帯びる。

 一方、それまでどこか余裕を感じさせていたゼノス様も笑みを消し、黄金色の瞳を僅かに細めた。

 その目線は、獲物を狙う獣のように鋭く、恐ろしい。


(二人とも、弁えている大人だから他家の教育方針に口出しはしないのでしょうけど……。いくら貧乏とはいえ、やっぱり他の貴族から見てもうちの家って歪なんだろうなあ。とほほ、本当にお先真っ暗だわ、うちは。二人の不快感が、手に取るようにわかります……)


 沈黙の中、ゼノス様が色んな言葉を飲み込んだように、一つ大きなため息を吐いた。


「……心配はいらない。お嬢さんの体調が落ち着くまでは、俺たちの部下をそれぞれ派遣しよう。荷物も筆記用具も、ここに入る前にドアの外に控えている者に命じて取りに行かせた。お嬢さんは、まずは休んでいなさい」

「そんな、申し訳ありません! 外部の方にそこまでしていただくなんて……」

「いいから、今は甘えなさい。ね?」


 ゼノス様は、子供を諭すような優しい手つきで私の頭をぽんぽんと撫でた。

 その手の暖かさに、不覚にも少しだけ安心してしまう。


 ……とその時。

 緊張が解けた私の腹虫が、情けなくも「ぐぅ」と小さく鳴った。


「……っ!」


「はは、正直だね。さあ、まずは食事だ。お嬢さん」


 ゼノス様が合図を送ると、扉の外で控えていた従者がワゴンを鮮やかに運び込まれる。

 そこには、鮮やかな赤い皮が特徴の果実――「ルビナ」が並んでいる。

 リンゴに似た、甘酸っぱく爽やかな香りが、部屋いっぱいに広がった。


 シリュス様は別の従者に指示にして、用意していたカップにあたたかいミルクティーを注いでいく。

 ゼノス様がベッドのすぐ脇に椅子を引き寄せて腰を下ろし、反対側にシリュス様が腕を組んで座る。


「まずはしっかりお腹を満たして。それから、これからについてじっくり話そう。……いいね?」


 黄金とアイスブルーの瞳が、いたわるような熱を帯びて私を射抜く。

 

(……あ、れ……)


 不意に、鼻の奥がツンとした。

 前世では、深夜のオフィスで独り、冷え切ったコンビニ弁当をかき込むのが日常だった。

 誰かが自分のために椅子を引き寄せ、自分の体調を案じ、自分のためだけに果物とあたたかい飲み物を用意してくれる。


 それだけで、こんなに心が温かくなる。


 前の世界でも。この世界でも。

 ずっと、ずっと、私は一人で戦うのが当たり前だと思っていた。


 視界が、急激に熱を帯びて滲んでいく。

 一度でも声を漏らせば、これまで必死に張り詰めてきたものが、すべて決壊してしまいそうだった。


「……ありがとうございます、お二方とも……」


 絞り出すような声が、自分でも驚くほど震えていた。


 シリュス様とゼノス様が、一瞬だけ目を見合わせ、それから私を包み込むような静かな視線を投げた。

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