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第4話:折檻、あるいは死の淵

暴力表現がございます。苦手な方はご注意ください。

 視界の端で、火花がパチリと弾けた。

 実の兄、ジュリアンの手によって叩きつけられた床は、冷酷なほどに硬い。

 口の中に広がる生臭い鉄の味が、これは夢ではないのだと現実に引き戻してくる。

 静まり返ったホールに、エドワード王子の冷淡な声が響いた。


「フィリアが怯えている。……これ以上、この場を荒立てるな。今日のところは、これでお開きだ」


 王子は、ジュリアンの暴力に肩を震わせる聖女フィリアを、慈しむように抱き寄せた。

 その目は、地を這う私を「不快なノイズ」として処理している。


(……よくもまあ。本当に聖女のことしか頭にないのね。面倒な追求から逃げ出したいだけの、臆病者のくせに)


 私は、自分を(さげす)む王子を心底冷ややかに見つめた。


「アナスタシア・カデンス。一週間後改めて、正式に王族案件として貴様を取り調べさせてもらう。それまで学園北側の離れに謹慎せよ。……衛兵、連れて行け」


 とにかく、最悪のシナリオである地下牢は回避した。

 とりあえずの時間は稼げたが、安堵の息を漏らす暇などなかった。

 私のすぐ(かたわ)らで、主君であったセシリア様が、ジュリアンの袖をそっと引くのが見えたから。


「ジュリアン様……アナスタシアがこれほど取り乱しているのは、きっとこれまでの『教育』が足りなかったせいですわ。私、あの子の行く末が心配で……。離れに行く前に、一度しっかりと分からせてあげていただけますか?」


 慈悲深い聖女のような微笑み。

 けれど、その瞳にはどろりとした悪意が渦巻いている。

 騎士科の次男坊であるジュリアンは、その言葉を「主君からの命令」として、そして「劣等感の捌け口」として、これ以上ないほどに歪んだ笑みで受け止めた。


「かしこまりました、セシリア様。カデンス家の恥は、私が責任を持って『矯正』しておきましょう」


(……ああ。やっぱり、そうなるのね)


 私は、衛兵に引き立てられるようにして会場を後にした。

 背中に突き刺さる王子の無関心と、セシリア様の冷笑。

 ゲームのシナリオを無理やり捻じ曲げた報い。

 その『揺り戻し』が、牙を剥いて私に襲いかかろうとしていた。



 連れて行かれたのは、学園の片隅にある、今は使われていない古い資材庫だった。

 衛兵たちはジュリアンに買収されているのか、私を冷たい床に突き飛ばすと、扉の外へと消えた。


「……いい度胸だったな、アナスタシア。あんな大勢の前で、家門を……私を泥に塗ってくれるとは」


 ジュリアンの拳が、容赦なく私の腹部を(えぐ)った。

 空腹で空っぽになった胃が悲鳴を上げ、酸っぱい液が喉までせり上がる。


 暴力は止まらない。

 ここ数日、まともな食事も睡眠もとっていない私の体は、紙細工のように脆かった。

 髪を掴まれ、頭を壁に打ち付けられる。

 視界が白く爆発し、熱く赤い液体が額を伝って流れ落ちた。


 やがてジュリアンは、ぐったりとした私の顎を強引に掴み上げた。

 乱れた銀髪の隙間から、私の顔をじろじろと品定めするように見つめる。


「……ふん。前髪を退ければ、顔だけで選ばれたあのお前の母親と瓜二つだな。無能な出来損ないのくせに、反吐が出るほど綺麗な器だ」


 露わになった私の素顔を見て、彼の口元が醜く歪む。

 そして私のドレスの襟元を、乱暴に掴み上げた。


「そうだ。お前をうっかり殺してしまう前に、その生意気な口が利けぬよう、徹底的に分からせてやる」


 びり、と布地が裂ける嫌な音が響く。

 肩から胸元にかけて大きくはだけ、剥き出しになった肌に冷たい空気が触れる。


「……っ」


 ジュリアンの、熱を帯びた汚らわしい指先が、はだけた私の肌へと伸びる。

 一人の女性としての尊厳を、彼は「教育」の名の下に粉々に踏みにじろうとしていた。


(……嫌。……触らないで)


 意識が混濁する。

 前世の、あの死の間際の感覚が重なる。

 どれだけ必死に働いても、どれだけ他人に尽くしても、最後は誰からも見られないまま、冷たい雨の中で使い捨てられていく。


(……なんで。どうして私だけ、こんな目に遭わなきゃいけないの?)


 シナリオの修正力が、私を殺そうとしている。

 地下牢で死ぬはずだった駒を、もっと惨めで、もっと絶望的な形で処理しようとしている。


 ――もう、いい。

 ――頑張ったわよ、私。

 ――死んでしまえば、全て楽になるわ。


 意識が暗闇に溶け落ちようとした、その時だった。

 脳内の奥底で、何年も閉ざされていた重厚な石の扉が、凄まじい音を立てて軋む。


《――其方、これで終わりたいのか?》

(……いや、だ)


 誰の声かもわからない。

 けれど、壊れかけた心に、じわりと温かい何かが染み込んでくる。


《ならば、諦めるな。其方はまだ、こんな場所で終わるべきではない》


 その声は叱咤するように、力強く私の魂を鼓舞した。

 消えかけていた命の火が、声に導かれるようにして激しく燃え上がる。


 《そうだ、ことわりを拒め。運命を、踏み潰せ》


 (……ああ、そうよ!こんな強制バッドエンドみたいな最期、絶対に、認めないんだから……!!)


 カチリ、と。

 私を縛っていた何かが、音を立てて外れた。


「……触るな。汚らわしい。」


 冷え切った私の声に、激昂したジュリアンが拳を振り下ろす。

 けれど、その拳が届くことはなかった。

 

 ――ガァァァァァンッ!!


 漆黒の魔力が爆発した。

 噴き上がった黒い霧は渦のように蠢き、七色の光の粒が星屑のように舞っている。

 その光景は、ゲームのラスボスとして暴走した『災厄のアナスタシア』が撒き散らしてた魔力に酷似していた。


 (……でも、あの時はこんな虹色の光なんてあったかしら……?)


 混濁する意識の中で抱いた疑問を、ジュリアンの悲鳴が掻き消した。

 私が「触れるな」と念じた瞬間、見えない圧力がジュリアンの腕を捉えたのだ。


 「が、あ……っ!? なんだ、これ……ぎ、あぁぁぁぁっ!!」


 めき、ぼきり。

 生々しい、骨の砕ける音が響く。

 ジュリアンの右腕が、あり得ない方向に捻じ曲がり、皮膚を突き破らんばかりにひしゃげた。

 溢れ出した虹色の光の粒が、彼の肌に触れるたびに、ジュッと肉を焼く異臭が立ち昇る。


「ひ、ひぃ、あああああぁぁぁっ!」


 ジュリアンは無様に弾き飛ばされ、のたうち回った。

 私はボロボロの体のまま、薄れゆく意識を必死に繋ぎ止める。

 今のうちにここから逃げ出したい。

 けれど、身体が鉛のように重く、指一本動かすことさえままならない。


(……誰か……誰でもいい。助けて……)


 その時、資材庫の扉が、外側から凄まじい力で蹴破られた。


「……何事だ。隔離場所への移送が滞っていると思えば、こんなところで何をしている」


 現れたのは、ルミナリア王国の矛と盾。騎士団長ゼノスと、魔導師団長シリュス。

 ゲームの中で、唯一の「まともな大人」、そしてシナリオの都合によって早々に葬り去られていった二人。


(……生きてる。まともな、人たちが……)


 まだ彼らが味方になってくれるかわからないのに、嬉しかった。

 安堵で、私の目から熱いものが(あふ)れる。

 彼らは、のたうち回るジュリアンと、満身創痍で虹色の残光を纏う私を見て、言葉を失った。


「殿下の要請で監視に赴いたが、離れに一向に現れないので探しに来てみれば……これは一体…」


 ゼノスが騎士団長としての峻厳(しゅんげん)な声で呟く。

 そして、空間に充満する異様な魔力を敏感に察知したシリュスが、眉を潜めて私を凝視した。


「……なんだ、この魔力は。アナスタシア・カデンス、君は……ここで何をした」


 気難しい師団長の視線には、明らかな警戒と、それを上回るほどの困惑が宿っている。

 私は、襲いくる凄まじい脱力感に耐えながら、なんとか視線を2人に向ける。


「あら、お二人は……殿下の許可なく、私刑を加えようとした愚か者を捕らえに来てくださったのではなくて? 」


 見た目は散々だけど、少しは貴族らしく見えただろうか。

 これだけ言えば、この人たちなら正当に対処してくれるはず。

 そう思った瞬間、私の意識は急激に暗転した。


「……あとは、おねがい、します……」


 虹色の光が霧散し、倒れそうになる私の体を、誰かが強い力で受け止めた。

 鼻腔を突いたのは、血の匂いではない。

 冷たく、それでいて焦がれるような、高貴な香料の匂いだった。


(……見てて。絶対に、負けないから……)


 薄れゆく意識のなか、その誓いを誰に向けたのかも分からぬまま。

 私は、深い深い眠りへと落ちていった。

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