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第3話:不備(コンプライアンス)を叩け

 私は冷たい床に叩きつけられたまま、震える膝を押さえていた。

 周囲からは容赦のない嘲笑と、正義の味方を気取った冷ややかな視線が突き刺さる。


 けれど、私の脳内は驚くほど静かだった。


 この「断罪」という名の理不尽なイベント。

 乙女ゲーム『聖なる乙女のプレリュード』の公式(シナリオ)通りなら、私はここで泣いて許しを乞う。

 聖女の目の前で王子の脚に(すが)りつくという醜態を晒し、その浅ましさが王子の不興(ふきょう)を買って、地下牢へ放り込まれるのだ。


(――さて。泣いて許しを乞うのは却下。どうせ信じてもらえないし、見苦しいだけだもの)


 それなら、別のやり方でいく。


 前世のブラック企業で、数えきれないほどの「無理難題を吹っかける最悪な取引相手」を相手にしてきた私だ。

 感情を捨て、事実とリスクで相手の暴走を止める。


(それが今、私にできる唯一の「生存戦略」なのよ)


 私は騎士たちの拘束を、しなやかな動作で振り払った。

 そして、ゆっくりと、誰よりも優雅に立ち上がる。

 

「……殿下。今のお言葉は、未来の王となられる御方の、正式な『裁定』と受け取ってよろしいのですか?」


 こんな即興の茶番が、公式な裁決だなんて冗談でも思いたくない。

 私は(しと)やかな微笑みの下に毒を隠して問いかけた。


「何だと……?」


 エドワード王子が不快げに眉を跳ね上げる。

 その隣で、聖女フィリアはこれ幸いとばかりに王子の腕にしがみつき、一言も発さず震えてみせていた。


「婚約破棄に、爵位ある令嬢への罪状宣告。これほどの大事、当然ながら国王陛下への奏上はお済みであると認識して間違いないでしょうか?もし陛下のご承認のない独断であれば、いかに第一王子といえど越権行為に当たりますが……。英明なエドワード殿下が、まさか平民の痴話喧嘩のように、裏付けもない噂話だけで動くはずもございませんしね」


 私はあえて「殿下なら当然わかっていますよね」という体裁で、王子のプライドを逆手に取った。


「……っ、それは……っ!」


 王子の顔が真っ赤に染まる。

 そんな王子に内心で溜息をつきつつ、私はさらに言葉を重ねた。


「もし奏上なしにこの場を収めたとしても、後になって陛下が『知らぬところで不当な裁定が進められた』と判断された場合、どうなるでしょうか」


 私はすっと目線を下げ、この先を憂う憐れな乙女を演じるべく、計算ずくで胸の前で手を組んだ。


「殿下だけでなく、ここにいて止めなかった皆様全員に、何らかのお咎めがないか……。私は、それが心配でならないのですわ」


 王子だけでなく、周囲の野次馬たちも動揺し始めた。

 彼らはただの「悪役への攻撃」を楽しんでいただけで、自分たちに火の粉が降りかかるなど微塵も思っていなかったのだ。


(よし、まずはコンプライアンス攻めよ! 上司の許可なしに勝手にプロジェクトの根幹を変更するなんて、どの世界でも、会社でも、許されない不祥事だわ)


 私は、主君であるセシリア様へ視線を移した。

 彼女は絶望したフリをしているが、その美しい頬は数ミリだけ、不愉快そうに引き攣っている。


(……捉えたわ)


 数年間、彼女の機嫌を損ねないよう、表情筋の微細な動きだけを注視し続けてきた「腰巾着」としての意地。

 貼り付けた笑顔の裏で煮えくり返る彼女の激情が、今の私には手に取るように分かる。

 自分の背景(モブ)でしかなかった無能な人形が、急に知性を見せたのが不快でたまらないのだろう。

 私は、呆然としている王子に向き直り、とどめを刺すべく微笑みを深めた。


「殿下。我がルミナリア王国において、ローゼンタール公爵家がどれほど貢献されているか、改めて語るまでもございませんわね? 陛下も、お二人が手を取り合って国を導くことを切に願っていらっしゃいます」


 この国、ルミナリア王国は資源が豊富とは言えない。

 だが、ローゼンタール家が所有する鉱山から採れる「魔石」は、国の全供給量の四割を担う生命線だ。

 エネルギー源であり、外交における最強のカード。

 それを一気に失うような真似は、国家の損失に他ならない。


「もし、殿下が聖女様を守りたい一心で、この国の現状すら把握せずに婚約破棄を強行しようとなさっているのであれば……。それは感情一つで国を危うくする主君だと思われてしまいませんか? 私のような浅学な者でも案じてしまうのです。」


 (しと)やかに、けれど急所を刺すように問いかける。

 会場の空気は完全に冷え切っていた。

「罪人を吊るし上げろ」という熱狂は消え、代わりに「自分たちの将来が危ういのではないか」という不安な囁きが広がる。


「貴様……っ、何を不敬な……!」


 王子の顔は、先ほどまでの赤色を超え、どす黒い憤怒の色に染まっていた。

 図星を突かれるとすぐ感情的になる。

 やはり管理職には向かないタイプだ。


 私は王子から視線を外し、ターゲットをセシリア様に絞った。

 ここで彼女を完全に否定すれば、実家への援助が止まり、私は帰宅した瞬間に処分される。

 今はまだ「狂信的な腰巾着」を演じ通すしかない。


「セシリア様。私は貴女に尽くしてまいりました。今も、貴女の慈悲を信じております……! きっと、何かの見間違いなのです。貴女が私を裏切るなんて、あるはずがありませんわ!」


 縋るような視線を向けると、セシリア様の口元が醜く歪んだ。

 思い通りにいかない人形の反乱に、彼女の忍耐も限界のようだ。


(……きっと彼女はこう思っているでしょう。『この出来損ないが、余計な真似を!』ってね)


 会場に「即決はまずい」という空気が確実に広がり、断罪劇が腰砕けになりかけた――その時だった。


「このっ……! 家の恥晒しが!!」

 

 会場の入り口から、怒鳴り声と共に一人の男が歩み寄ってきた。

 

 私の実の兄、ジュリアン・カデンスだ。


 騎士コースの最終学年に在籍するカデンス家の次男。

 栗色の髪を短く整えた彼は、傲慢さを隠そうともしない険しい表情で、一直線に私へと突き進んでくる。


「殿下、申し訳ございません! こんな妹はカデンス家の面汚しだ! 今すぐ処刑していただいて構いません!」


 ジュリアンは私に駆け寄るなり、迷いなくその右手を振り上げた。


 ――視界が、大きく火花を散らす。


 乾いた衝撃。


 私の体は真横に跳ね、再び冷たい床へと叩きつけられた。

 口の中に広がるのは、ひどく生臭い鉄の味。


「……っ」


 切れた唇から、たらりと赤い血が零れ落ちる。

 血を拭ったその指先を見た瞬間。

 

 私の中で、何かが音を立てて千切れた。

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