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第11話:出立の朝

 私は寄宿舎のバルコニーで一人、夜風を吸い込んでいた。

 震えが、止まらない。

 あと数時間で出発だというのに、私の身体は眠りを完全に拒否していた。

 指先が、心臓が、魂の深い場所が、あの家を思い出して悲鳴を上げている。


 《……怖い。怖い。行きたくない。また、あんな風に踏みにじられるの?》


「大丈夫よ、私。……大丈夫。私があなたを守ってあげるから」


 私は自分の肩を抱き、自分自身をなだめるように何度も呟いた。

 前世の記憶があっても、身体が覚えた絶望は消えない。

 私は、自分が思っている以上に、幼いアナスタシアの「傷」に強く縛られていた。


 やがて、凍てつくような闇が薄れ、重苦しい灰色の空が白み始める。

 夜明け前の空気は、肺の奥まで白く染め上げるほどに冷たかった。

 王立魔法学園の重厚な正門前。

 静まり返った石畳の上に一台の馬車が控えている。

 そこには既にゼノス様、シリュス様、そして護衛である双子の姿があったので駆け寄る。


「……右手を出せ、アナスタシア」


 シリュス様が静かに一歩踏み出し、私の手首を取った。

 差し出されたのは、細い銀のチェーンに、小さなアイスブルーの魔石が嵌め込まれたブレスレット。

 繊細な銀細工が高貴な気品を放っている。


「これは……」


 横で見ていたゼノス様が、驚いたように目を見開いた。

 シリュス様は構わず、私の手首にそれをかちりと装着させる。


「万が一のための魔道具だ。ある程度の毒なら、この石が反応して解毒を行う。……常に身に着けておけ」


 あまりに高価そうな品に、私は申し訳なさから返そうとした。

 けれど、見上げたシリュス様の瞳には、今まで見たこともないような強い心配の色――あるいは、何かをひどく恐れているような色が浮かんでいた。


(……そうか。もし私が毒を盛られたりしたら、この魔力がどう暴走するか分からないものね。そうなれば私の身も危険だし、何より彼の研究も止まってしまうものね)


 シリュス様の不安を自分なりに「研究への支障」だと推測し、決意を固める。

 そう考えている私の前に、今度はゼノス様が歩み寄った。


「なら、俺の方からもお嬢さんに」


 彼が差し出したのは、一振りの細身の短剣だった。

 スティレットのような鋭い形状で、柄尻には鮮烈な赤い宝石が埋め込まれ、黄金の装飾が施されたその刃は、美しくも恐ろしさもあった。


「ゼノス、お前……」


 シリュス様が絶句するのを余所に、ゼノス様は真剣な眼差しを私に向けた。


「シリュスと同じく、万が一のためのものだ。これは主人と認めた者の身に危険が迫った際、自動的に発動して守ってくれる。……持って行ってくれるか?」

「はい」


 その眼差しの強さに、私は頷くしかなかった。

 主人の登録のため、ゼノス様が私の指先を小さく切り、赤い魔石に血を吸わせる。

 チクリとした痛みは、彼がすぐに施してくれたヒール魔術で消え去った。


「ゼノス様、ヒールも使えるのですね」

「聖女ほどじゃないが、前線の騎士なら誰でも簡単な自己治療は習うさ」


 彼はいつものように軽い口調で笑ってみせるが、その瞳の奥にはやはり、隠しきれない心配の色が滲み出ている。

 それでも、たとえ小さな傷だとしても、こうして私を想って魔力を使ってくれることが純粋に嬉しかった。


「帰省とはいえ、状況はこれまでとは違う。いいか、注意を怠るな。……お嬢さん。他に何か、俺たちにできることはないか?」


 二人の真っ直ぐな心配を浴びて、心の奥に閉じ込めていた子供のような本音が、ぽろりと零れた。


「……なら、一つだけ。わがままを言ってもいいですか」


 少しだけ恥ずかしくなるが、溢れ出した気持ちは止まらない。


「私、今まで誰にも褒められたことがないんです。だから……もし無事にやり遂げて帰ってこれたら、その…」


 私は二人を見上げ、縋るように、けれどはっきりと告げた。


「お二人から、『よくやった』って、言ってほしいんです!」


 前世でも、そして今世の家族からも、一度も言われたことがない言葉。

 だからこそ、何もなかった私を見つけ、守ってくれたこの二人からの言葉が欲しかった。

  

 その約束さえあれば、私はどこまでも頑張れる。

 二人に誇れる淑女として、この地獄を越えていける。


 私の切実な告白に、二人は一瞬、息を呑んだようだった。

 けれどすぐに、これ以上ないほど力強く頷いてくれた。 


「ああ、約束だ。最高の『よくやった』を準備して待っている」

「……ああ。必ず、無事に帰ってこい」


 二人の激励に、不安で凍えていた心へ、少しずつ温かな灯がともっていく。

 私は二人に精一杯の笑みを送ると、くるりと背を向けた。

 そして、地獄の実家へと向かう馬車のステップを一歩、力強く踏みしめた。



 馬車の車内には、メイド服姿のカイルと、騎士の衣装に身を包んだリアナが向かい合わせに座っていた。

 ガタゴトと規則的な振動が心地よいが、のんびりしている暇はない。


「実家に着く前に、作戦を詰めましょう」


 私は昨日描き上げた二枚の地図を広げた。


 前世の私は、とにかく貯金がなかった。

 だから少しでも安くて条件の良い物件を探すために、狂ったように間取り図を眺めるのが趣味だったのだ。

 劣悪な環境から少しでもマシな「城」を見つけ出すための執念。

 それが、今ここで活きた。


「驚きました……こんなに分かりやすい地図、見たことがありません。これなら頭に入れやすい。護衛として非常に助かります」


 リアナが凛とした目元を丸くして驚き、微笑む。

 カイルも無機質な表情のまま図面を凝視していた。


「通路や隠し戸が判れば、隠密行動もとりやすい。こちらから魔道具を仕掛けるのにも好都合です」

「……えっ、うちに魔道具を仕掛けるのですか?」

「そんな大それたものではありません。万が一の際の『誘導』に使う程度です」


 カイルは淡々とした答えに一抹の不安がよぎる。

 だが正直、実家に思い入れはこれっぽっちもないし、「バレなきゃいいか」と自分を納得させた。


 続いて、今日の予定を確認する。


 事前に学園の連絡用魔道具――『エアメール』で帰省の連絡をしたところ、継母である第一夫人のセレーナから「お茶会をしましょう」という、きな臭い返信があったのだ。

 これまではまともにご飯すら一緒にしたことがないのに、お茶とはいくらなんでも怪しすぎる。


「昼過ぎに到着後、まずはお父様へ挨拶に。その後、お義母(かあ)様とのお茶会になります。おそらく、ゼノス様が情報統制しているジュリアン兄様の安否を聞かれるでしょう。私は『知らぬ存ぜぬ』で通すつもりです。お茶会から戻り次第私の自室に向かい、学園に戻るための荷造りをする予定です。その隙に、カイルと私は自室を抜け出し、父の書斎へ潜入します。リアナは予定通り、カイルの魔道具を使って私たちが部屋にいると偽装してください」


 そういえばと、昨日、カイルに身代わりの人形を作るために髪の毛を一束渡したのを思い出す。

 なんとも人体の一部が必要とのことで、妙にゾクゾクするような気持ちだったが…背に腹はかえられない。 


 私は姿勢を正し、二人に真っ直ぐ向き合った。


「改めて伝えておきます。カデンス家に入れば、何が起きるか分かりません」

 

 二人の表情が、一気になだらかなものから鋭いプロのそれへと引き締まる。


「私たちが『契約書』の存在を掴んでいることは向こうも知らないはずですが……もし少しでも異変を感じたら、すぐに教えてください。そして、身の危険を感じたら――遠慮なく逃げてください」


 私一人のために、誰かを失うわけにはいかない。

 すると、隣に座るリアナが私の手をそっと包み込んでくれた。


「お嬢様、大丈夫ですよ。私たち護衛が、お嬢様を傷つけることは決して許しません。……盾となってお守りすると誓ったのです。逃げることなどございません」

「でも、私はあなたたちを巻き込みたくなくて……」


 食い下がろうとした私の言葉を、カイルの淡々とした声が遮った。


「護衛として行くのです。もし尻尾を巻いて逃げたりなんかしたら……シリュス様に氷漬けにされ、ゼノス様に一刀両断されますから」 

「…………」


 真顔で、恐ろしく物騒なことを言う。

 あまりの言い草に、私は思わず「それもそうでしたね」と吹き出してしまった。

 確かに、あの二人に本気で怒られるのは私だって御免被りたい。


 重苦しかった空気がふっと緩んだ瞬間、猛烈な眠気が襲ってきた。

 昨夜は一睡もせずバルコニーにいたのだ。

 馬車の心地よい揺れが、限界に達していた私の意識をまどろみへと誘う。


「……すみません、少し。気が張っていたせいか、急に眠気が……」


 瞼が閉じそうな私を見て、リアナは少し考え込んだ後、ポンッという軽い音と共に、頭上に銀色の耳を現し、背後からはモフモフした尻尾を飛び出させた。


「お嬢様、到着まで私の尻尾を枕にして仮眠をとってはいかがですか? ……『モフモフ』したいなら、どうぞこれをお使いください」


 まさかの提案に、肩の力が抜ける。


「……よ、よよよ、良いのですか? 重くないかしら……」

「お嬢様は非常に軽いですから。誰の目もない今だけですよ」


 リアナは唇に人差し指を立てて内緒のポーズをする。

 そして、尻尾を自身の膝の上にのせて、ふさふさと揺らした。


 私は呆気なく、秒で陥落した。

 リアナの膝枕、ならぬ「尻尾枕」で横になる。


(モフモフのせいだ、美人さんのモフモフが目の前でモフモフしているんだもん。そりゃあモフモフせざるを得ない……)


 言い訳を並べながら、私は淑女の仮面を脱ぎ捨てて最高級の温もりに顔を埋めた。

 向かいのカイルの目線すら、今はもうどうでもいい。


「リアナ、ありがとう。私……今とっても幸せよ……」


 撫でる手を感じながら、私はいつしか深い眠りの海へと沈んでいった。



「……起きてください、お嬢様。到着です」

 カイルの鋭さを帯びた声に、私は目を覚ました。

 窓の外には、忌々しいカデンス伯爵邸。

 曇天の空が、今の私の心境を映し出すようだった。

 馬車を降り、ジャリッ、と小石を踏みつける不快な音。

 門構えだけは立派なこの屋敷を、私は冷ややかに睨みつけた。


(……絶対に生き抜いてやる。もう腰巾着は辞めたんだから、冤罪で殺されてたまるもんですか)


 ギィィ、と重たい門が開く。


 それはまるで、地獄の門が開かれたような錯覚。

 淀んだ、甘ったるく暗い空気が流れ込んでくるのを感じる。


 一刻も早く学園へ帰りたい弱気な心を、奥歯を噛み締めて押し殺す。


「アナスタシア・カデンス、ただいま学園より帰還いたしました」


 そこには、最新のドレスを纏い、扇で口元を隠して笑うセレーナが立っていた。


「アナスタシア。お帰りなさい。あなたの帰りを今か今かと待っていたのよ」


 その笑みはまるで、獲物を狙う蛇のような笑みであった。

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