第12話:お義母様とのお茶会
ギィィ、と重厚な門が、錆びついた悲鳴を上げて開く。
それはまるで、私の胃を直接掴んで引きずり出すような、嫌な音だった。
淀んだ、暗く甘ったるい不快な空気が、肺の奥まで侵食してくるのを感じる。
ああ、やはりここは大嫌いだ。
「アナスタシア。お帰りなさい。あなたの帰りを今か今かと待っていたのよ」
継母セレーナが、蛇のような笑みで出迎えていた。
生存本能が脳内で警鐘を乱打する。
向けられた視線に、かつての私なら震えが止まらなかっただろう。
けれど今の私には、背後に信頼できる人たちがいる。
……正直に言えば、今すぐ逃げ出したい。
でも、無事に帰って「よくやった」とあの人たちに褒めてもらいたい。
その身勝手な願いだけが、私の足を地面に繋ぎ止めていた。
「……ご心配をおかけしました。まずは、お父様に挨拶をしたいのですが」
一刻も早くこの場を離れたくて口にした問いに、セレーナは事もなげに言った。
「旦那様は急な公務でお出かけよ。久々に家に戻ってきたのに会えなくて残念ね」
セレーナは皮肉げに口角を歪める。
やはりか……。
あの人は昔から、面倒なことが起きるとすぐにこうして逃げ出していた。
助けてほしい時に手を伸ばす先がない。
私はこの家で、いつも一人だった。
実の娘がこれほどの窮地に立たされてもなお、あの人は逃げを打つのか。
期待なんてしていなかったはずなのに、胸の奥がチリリと焼けるように痛む。
「なるべく早く学園へ戻らなければなりません。荷造りを済ませますわ」
「まあ。なんと薄情な娘なのかしら。親が準備したお茶会に参加もしないなんて。……教育が足りなかったかしらね?」
セレーナの目が細められる。
蛇が獲物を絞め殺す時の目だ。
ここで断れば、さらに面倒な「説教」という名の長い人格否定の時間が始まる。
私は吐き出しそうになる溜息を飲み込み、重い足取りで茶会場へと向かった。
案内された茶会場には、長男のセドリックが既に座り、神経質そうにメガネのブリッジを押し上げていた。
彼は第一王子派閥の庶務官をしている。
家計が火の車である我が家を立て直そうという気概もなく、頭にあるのは権力と体面ばかり。
……本当、この家の男たちは「現実」から逃げるのが得意らしい。
「おい、アナスタシア。座れ。……聞きたいことが山ほどある」
セドリックは私を一瞥もせず、背後のリアナとカイルを値踏みするように見た。
「……そいつらは誰だ。見慣れない顔だな」
「王城の騎士団と魔導師団より派遣された監視役の、リアナ様とカイル様です」
私の答えに、セドリックは鼻で笑った。
「ふん。王城からの監視員と言っても、ずいぶんと若いな。……君たち、あの偏屈なゼノスとシリュスの下に就かされるとは同情するよ。あいつらは融通の利かない仕事人間だ。王子への忠誠よりも規則を優先するような連中にこき使われて、君たちも内心、辟易しているだろう?」
不敵な笑みを浮かべる義兄。
彼はこの任務を「不遇な左遷」と思い込み、双子を自分と同じく「上司を憎む小役人」だと見下して、味方に引き込めるとでも思ったのだろう。
(……その作戦、致命的に滑ってますよ、お兄様)
案の定、後ろを振り返るまでもない。
二人の立ち上る「怒気」が、圧となって空気をビリビリと私の背中を震わせている。
リアナが、凛とした――それでいて、湧き上がる怒りを押さえつけた冷たい笑顔で対応した。
「ご心配いただきありがとうございます。ですが、我々が教わったのは、任務の大切さに大小はなく、どれもしっかりと全うすべきという矜持のみですので」
「……チッ。あいつらの言いそうなことだ」
セドリックは忌々しそうに顔を顰めると、セレーナが私の顔を覗き込むようにして口を開いた。
「ところでアナスタシア。ジュリアンのことなのだけれど……パーティーの後から王城に留め置かれたままで、未だに戻ってこないのよ。事情聴取だとは聞いているけれど、今のあの子の状態がさっぱり分からなくて。貴女、何か聞いていないかしら?」
「……申し訳ありません。私はあの日以来、隔離されておりましたので。ジュリアン兄様のことについては、何も存じ上げませんわ」
私が「知らない」と告げた瞬間、セドリックは露骨に肩を落とした。
そして、不安げな表情を浮かべるセレーナを慰めるように、私を鋭く睨みつける。
「母上、こんな奴をあてにするだけ時間の無駄ですよ。ジュリアンは学園での成績も非常に優秀でしたから。事情聴取というのは名目で、その実、騎士団か魔導師団が、優秀な彼をスカウトするために引き留めているに違いありません」
「まあ、やはりそうですのね? あの子なら、きっと……」
「ええ。あいつも学園の成績もずば抜けて良かったですからね。どこぞの不出来な妹とは大違いですよ」
……本当に、めでたい親子。
ジュリアンが王族の命を無視し、私に暴行を加えた罪で不敬罪に問われかけているというのに。
あまりの情報の遮断ぶりに呆れて私は冷めた目で彼らを見つつ、内心は情報統制がしっかりとなされている事に安堵しつつゼノス様たちに感謝した。
「さて、本題だ。さっさと唆した奴の名前を吐け。お前のような無能が、あのお茶会で殿下やセシリア様に楯突けたはずがない」
セドリックが身を乗り出し、獲物を追い詰めるような目で私を睨む。
(私のアドリブだって言っても、この人たちは絶対に信じないでしょうね……)
「まあ……。本当のことをおっしゃいな、アナスタシア。正直に話せば、私からローゼンタール公爵家にもお取りなしして差し上げますから」
セレーナが優しげな声を出す。だが、その瞳の奥には冷酷な打算が透けて見える。
(……お取りなし、だって?)
私を冤罪で追い詰め、学園の離れに放り込んだ元凶の一つ。
その公爵家との仲を取り持ってやるという。
この期に及んで、それが「娘への最大の慈悲」だとでも思っているのだろうか。
この人たちの世界は、なんて狭くて、なんて傲慢なんだろう。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが今は、あの方々にお会いできるような立場にございません。これ以上ご迷惑をかけるわけにも参りませんし……」
私は俯きつつも、申し訳なさそうに貴族としての正論を盾にした。
その反論の隙を与えない――彼らから見れば、厚意を無下に扱う「可愛げのない」事務的な態度が、セドリックの苛立ちに火をつけた。
「お母様、見てください。これが、こいつの本性ですよ!」
セドリックが吐き捨てるように言い、苛立ちをぶつけるようにテーブルを叩いた。
「アナスタシアの母親と同じだ。しおらしいフリをして正論を並べ立て、結局は周りの苦労も顧みず、独りよがりな理屈を通そうとする。……そうやって鼻持ちならないプライドを盾にするあたり、語るに落ちたものですね」
セドリックの刺々しい言葉に、セレーナは困ったように眉をひそめ、わざとらしく溜息をついて見せた。
もちろん、彼女は本気で困ってなどいない。
あくまで「尽くしているのに報われない悲劇の母」を演じているだけだ。
「あらあら……。私はこの子のために、心を砕いて教育してきたつもりでしたけれど。……やはり、あなたの『本来の母親』の教えが悪かったのかしらね。あの方も、分を弁えない人でしたもの」
前世の記憶という「シールド」がある今の私には、その言葉も直接的なダメージにはならない。
けれど、本来のアナスタシアがこれを聞いていたらと思うと……胸が締め付けられる。
身体が覚えている「痛み」が、ムカムカとした真っ黒な怒りに変わっていく。
(……もう、いいわ。この人たちに、私の大切な人たちの名前をこれ以上汚されるのは我慢ならない)
「……お兄様。お義母様。これ以上のお話は、平行線を辿るだけのようですわ」
私が冷たく告げ、席を立とうとしたその時――チリン、とセレーナが鈴を鳴らした。
「待って、アナスタシア。そんなにカリカリしないでちょうだい。お土産があるのよ。南国から仕入れた、身体の疲れに効くお茶。まだ一口も飲んでいないじゃない?」
セレーナは毒味と称して自ら一口飲み、私にカップを差し出しす。
このままで、私を逃がさないつもりなのか…明らかに罠だ。
だが、ここで拒めばさらなる追及が始まり、これからの屋敷内での調査に支障が出る。
私は左手首のブレスレットをそっと撫でた。
(シリュス様の魔道具があれば……きっと大丈夫)
意を決して、一口。
芳醇な茶葉の香りの奥に、明らかに異質な、粘りつくような違和感があった。
私はそれを、一切の表情を崩さずに飲み込んだ。
――その瞬間。
机の下に隠したブレスレットが、服の上からでも仄かに光を放った。
一口分だけでも浄化が必要なレベルの「毒」を盛られたのだ。
ふつふつと、静かな怒りが湧き上がる。
亡き母を貶め、私を嘲笑い、平然と毒を盛り……さらには、私を救ってくれたあの方たちの存在まで侮辱するこの家族。
身体の中に、闇のような力が蠢き始める。
飛び出しそうなそれを内側にとどめるのに必死で、私は思わず前に屈み、身体を丸めた。
机の下では、シリュス様の魔道具が周囲に悟られぬよう淡く光り、侵食しようとする毒を静かに浄化し続けている。
リアナは心配そうに見つめ、仏頂面のカイルですら、私から漏れ出す「異質な気配」に隠しきれない動揺を見せていた。
対照的に、セレーナ様は勝利を確信したように醜く口角を吊り上げた。
私が身体を丸めたのを、毒による苦痛に耐えかねたのだと誤解したのだろう。
――その瞬間、理性の糸が音を立てて千切れた。
震える手でカップを握り直し、底に溜まった紅茶を躊躇なく飲み干す。
その行動にお茶会にいる全ての人間が驚いて固まる。
静寂の中、私の声だけが響いた。
「……お代わりを。残りも、全部入れてください」
ティーポットを手に固まっているメイドを、冷ややかな視線で射抜く。
かつての私のように、ただ怯えて言いなりになるだけの娘はもうここにはいない。
逃げ場のない圧力を感じたのか、メイドの指先がカタカタと震えだす。
彼女は恐怖に顔を強張らせながら、私の命令に逆らうことすらできず、反射的にお茶を注ぎ始めた。
毒の正体を知っているのだろう、セドリックが「なっ……」と顔を引き攣らせ、アワアワと無様に狼狽える。
ああ、お兄様…その反応で答え合わせは完了よ。
貴方も毒入りだと知っていたのね。
(――せいぜい存分に、その見苦しい顔で驚きなさいな)
さらにもう一杯、なみなみと注がれた毒入りの紅茶。
私は、それを勢いよく胃へと流し込んだ。
背後から伝わってくるふたごの気配が、凍りついたように強張るのを感じた。
令嬢としてあまりにも豪胆、かつ自虐的とも取れる私の振る舞いに、味方であるはずの彼らさえも、言葉を失い戦慄しているようだった。
そして対面にいるセレーナは、その扇を持つ手が、ピクピクと怒りに震え始める。
私は一滴も残さず空になったカップをテーブルに置き、渾身の満面の笑みを彼らに向けた。
「お義母様、大変おいしゅうございましたわ」
愕然として固まるセレーナとセドリックに対し、私はお茶の感想を突きつける。
鏡でもあれば、今の自分の顔を見てみたかった。
きっと、家族の顔色を窺ってばかりだったかつての「腰巾着令嬢」の影など微塵もない、悪役令嬢顔負けの笑みを浮かべていたに違いない。
「娘として、お茶会へ参加する義務は果たしました。……これ以上の時間はございません。部屋にお暇させていただきますね」
なるべく淑女に見えるように、最高に美しく笑って。
私は、幽霊でも見たかのように固まる二人を置き去りに、お茶会室を堂々と歩き出した。
背後で、何かが割れるような音が響いた気がしたが、私は振り返らなかった。
扉が閉まった瞬間、これまで余裕の笑みしか見たことのなかったセレーナの仮面が剥がれ、醜く屈辱に歪んだ表情を浮かべていたなんて――。
そして扇子をへし折らんばかりに握りしめ、剥き出しの怒りで扉を睨みつけていたなんて、その時の私は思いもしなかったのだ。




