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閑話:ゼノス視点

 目の前の扉が、静かに閉められた。

 重厚な木材が枠に収まる小さな音と共に、部屋の奥にいたアナスタシアの熱が遮断されるような感覚。

 途端に、廊下の冷え切った空気が、所在なさを煽るように肌を撫でた。


「……意外だったな。君がこれほど素直に、あのような『賭け』に乗るとは」


 隣に立つ男、シリュス・アイゼンが、感情の読めないアイスブルーの瞳を俺に向けていた。

 いつもの冷徹な声で、彼は独り言のように短く、鋭く紡ぐ。


「――氷鎖隠封(カテ・グラナ)


 シリュスの指先から放たれた青白い光が、扉の隙間を這うように伸びた。

 それは瞬時に、透き通った氷の鎖へと姿を変える。

 ジャラリ、と極寒の冷気を纏った鎖が扉と枠を幾重にも縛り上げると、そのまま扉をキンと薄い氷の膜が張る。

 そして、その薄い氷の膜は、木材の中へと吸い込まれるように沈み、消えた。


 魔力的にも物理的にも外部からの侵入を拒む、魔導師団長直々の防御術だ。


「賭け、か。あんなに緻密で、利権のパワーバランスを完璧に計算した『毒』を吐く令嬢を、俺は他に知らねえよ」


 俺は鼻で笑い、無骨な自分の掌を見つめた。

 この手は、数刻前まで彼女の小さな温もりを、その命の重さを、確かに感じていたのだ。


「あれはただの令嬢の戯言じゃない。王族、教会、そしてローゼンタール公爵家……。この国の屋台骨を一度に叩き壊し、再構築しかねない危険な一手だ。……それをお前も理解しているんだろう、シリュス?」

「……フン。詳しい話は、明日彼女の支度が整うまでに詰めておこう」


 シリュスはそれだけ言い残し、冷たい音を立てて去っていった。

 一人残された俺は、壁にもたれかかり、天井を仰ぐ。


 目を閉じれば、昨日の光景が嫌というほど脳裏に蘇る。

 ジュリアンの暴力を受け、魔力を暴走させた時の彼女は、神々しいほどに美しかった。


 月光を反射する白銀の髪が、怒りに狂う漆黒の魔力の風の中で舞い踊る。

 世界の全てを拒絶するように燃える紫の瞳。

 その奥には、見たこともない虹色の虹彩が万華鏡のように揺らめいていた。


 それは触れる者全てを包み込むような闇を纏いながらも、同時に目を逸らすことのできない、純粋な輝きでもあった。


 だが、その直後に力尽き、俺の腕の中に落ちてきた彼女は――驚くほど軽く、壊れそうなほどに儚かった。


(……実家で虐げられ、尊厳を踏みにじられてきたというのに)


 彼女の精神は折れるどころか、磨き抜かれた白銀の剣のように鋭く、そして美しい。

 そんな彼女は、俺にこう言った。


《……国を護るために己の身体を剣として捧げて戦う、そんなゼノス様に、これほど相応しく誇らしい名前はありません。……とっても格好いいと思います!!》


 それは皮肉でも、畏怖でもなかった。

 彼女は俺の「紅蓮の剣鬼」という二つ名を、血塗られた人殺しの異名としてではなく、研鑽(けんさん)と守護の証として肯定した。


 俺という、人斬りの道具を。

 血の臭いにまみれたこの身体を、尊敬の眼差しで受け入れたのだ。


 俺の職務は、常に死と隣り合わせだ。

 王の剣として数えきれないほどの人を斬り、魔獣を(ほふ)ってきた。

 その手は自分でも嫌気がさすほど血の臭いに塗れている。

 ゆえに、女性たちは俺を恐れる。騎士団の連中も、強さは認めても人としての一線を置いて接してくる。


 俺の存在を、一人の男として真っ向から肯定した女など、彼女が初めてだった。


「王の剣」でありながら、俺はヴァルカニス公爵家の当主である。

 だが、それはあくまで中継ぎに過ぎない。

 子を成せなかった先代夫婦に引き取られた、ただの養子。

 幸いにも愛情深く育てられたが、運命の悪戯か、両親はその後めでたく子に恵まれた。

 俺には今、歳の離れた弟妹がいる。

 いずれ彼らが成人すれば、俺は公爵家を退き、再び「王の剣」という名の消耗品に戻るだろう。

 それが、拾われた俺の果たすべき義務だ。

 養子でありながら当主を任された恩を返すため、俺はこの手を汚し続けてきた。


 だが、そんな俺の生き方を、彼女はあたたかな言葉で肯定した。


(……ああ。厄介なことになった)


 胸の奥から、どろりとした「欲」が溢れ出すのを感じる。

 いつ死ぬかわからない身の上だ。

 特定の女を欲したことなど一度もなかった。

 女なんてものは、一夜限りの慰めで十分だと思っていたのに。


 未来を見透かしたような大人びた顔を見せたかと思えば、少しからかうだけで少女のように頬を染める。

 あのアナスタシアの一挙手一投足から、どうしようもなく目が離せない。


 彼女は、自分を陥れたフィリア嬢に謝罪したいと言った。

 己の非を認め、矜持を守り抜くと宣言したあの瞳。

 利権や保身に明け暮れるこの薄汚い貴族社会において、誠意を見せようとするその姿。

 それは、険しい高嶺の頂に咲く、一輪の花のように気高く、清らかだった。


 ……俺は一体、何を守ろうとしてきたのだろうか。


 これまで王族の命を、民を、国の安寧を。

 「仕事だから」という理由だけで、俺はこの手を様々な血で汚してきた。

 守ってきたものに価値はあるのかと、自問自答した夜も少なくはない。


 ……けれど。


 目の前で、弱くても甘えずに一人で立とうとする、あの健気な少女。

 この美しさを、誰にも壊させたくない。

 泥を被り、誇りを捨てさせられそうになっている彼女を、俺のこの手で守り抜きたい。

 そう、本気で思ってしまった。


 ふと、先ほどまで隣にいた男を思い出す。

 氷の魔王と呼ばれ、俺と同じく様々な感情を殺しながら、今の立場を得て生きてきたはずの男。

 彼もまた、俺と同じように熱を帯びた眼差しで彼女を射抜いていた。


(……お前もか、シリュス)


 奴は魔術的な興味だと言い張るかもしれない。

 だが、あの執着はそんな理屈で説明できるものじゃないだろう。


 ただでさえ、アナスタシアの立場は危うい。

 自分で立てた計画とはいえ、実家という蛇の巣に飛び込み、王族やローゼンタールをも盤面に巻き込むその策は、一歩間違えれば彼女の身を削りかねない危険な賭けだ。


 彼女に悲しい顔は似合わない。

 笑う顔だけを見ていたい。


(……ふっ。今なら少しだけ、あの第一王子の気持ちがわかるな)


 これまでは、一人の女に狂うあいつを愚かだとさえ思っていた。

 だが、それは間違いだった。

 本当に守りたいものを目の前にして、正気を保っていられる自信など、今の俺には微塵もなかった。


 紅蓮の剣鬼が、生まれて初めて「剣」ではなく「手」で、何かを抱きしめたいと願ってしまった。


 ーーそれがどれほど甘く、険しい道だとしても。


 俺は壁から背を離し、闇の降りた廊下を歩き出した。

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