二 悄縁小影という少女
午前六時、悄縁小影はいつも通りに目を覚ます。
ゆっくりと体を起こしてスマホを見ると、小影にとって唯一の親友から返信が着ていることに気がついた。そういえば、寝る前に昨晩の出来事を送るだけ送って、そのまま布団に潜ってしまったのだった。
ベッドから這い出ながら、親友とのトーク画面を開く。そこには昨日起こった内容を送ったものと、それに対して心配する旨の返信があった。それを見て昨晩の顛末を反芻しつつ、キッチンの方に歩んでいく。といっても、1LDKのアパートの一人暮らしだ。大したものがあるわけではない。
食パンをトースターで焼きつつ、コップに水を注ぐ。パンが焼き上がると適当な平皿にそれを乗せて、コップと共にテーブルに置いて椅子に座った。そのまま無感情に食パンを口に運ぶ。焼いたパンだ、という印象しかなく、食事についてそれ以上に考えることなど何もなかった。それより、昨日取り逃した怪異をどう探し当てるかの方が重要だった。
パンを食べ終えた後は洗面台へと向かう。鏡を見て、相変わらず死んだような顔をしているなと自嘲する。かといって、今更どうにもできないことも確かである。この気持ちに整理がつくまでは、決して笑えることはないだろう。今はいない家族の為にも、と目の前の瞳が決意の光で煌めく。
それから顔を洗って、歯を磨いて、軽く寝癖を直す。くせ毛気味な彼女の髪は毎朝跳ねている所が多くあり、直すのに少々手間がかかる。小影自身、身なりをあまり気にしないので直さなくてもいいと思っているのだが、ボサボサのままで登校すると親友が怒るのだ。そういうわけで、多少時間を食っても直す必要があった。
髪を整え終えると、制服に着替え始める。親友は可愛いと言っていたが、小影は大して何も感じられなかった。学校の制服なんて他の所と大差ないだろうと、そのぐらいの認識でしかなかった。どちらかといえば、私服と違って決められているものだから、毎朝服を選ばなくていいという利点の方が大きかった。
着替えが終わり、スクールバッグを肩に掛けて財布を探そうとしたところで、あの女に財布を盗られていたことを思い出した。思わず舌打ちが出てしまう。どうしようもないからそのまま行くしかないが、ムカつくものはムカつくものである。朝から嫌な気分になりながら、小影はアパートを出た。
小影の通う高校は家から二〇分程歩いた所にある。一応実家のようなものはあるのだが、徒歩圏内の学校が近くになかったためにその学校を選び、高校生から一人暮らしを始めたわけだ。自転車やバイクを持ち合わせていない小影は、必然的に徒歩通学になるしかなかった。けれども電車通学により時間や電車賃をかけることになるくらいなら、徒歩通学の方がマシだと感じていた。
時間は午前七時四〇分頃。八時には教室に着くだろう。ちょうど通学・通勤の時間のために、学生やスーツ姿の人がちらほら見える。そんな住宅街を歩いていると、目の前から『何か』が向かってくるのが見えた。
それは赤いワンピースを着た女だった。嫌な黒いオーラを纏っていて、近づけば近づくほどにそれが呪詛が聞こえてくる。それだけある種の存在感があるにも関わらず、周りの人々は気に留める様子がない。見えていないかのよう、というか実際に見えていないのだろう。それを確認して目の前の『何か』を怪異と断定した小影は、無意識的に拳を強く握った。
そうして赤いワンピースの女が小影の目の前まで迫った時、小影はその女を腕で払った。昨晩の様に護符を握り込んだわけでもない。ただ、腕を振り払っただけ。それだけ目の前の女は、吐いていた恨み言もろとも消え去っていった。一方で祓った当の本人は、特に気にする様子もないようであった。むしろ、怪異に対しての恨みがより色濃くなったようにも見える。苛立つ気持ちを隠しつつ、どこかを睨むような目で先を進んだ。
≪≫
高校に到着し、教室の中へと入る。朝のHRは八時半からのため、それほど人は多くない。友達などほとんどおらず、唯一の親友の姿も見当たらなかったので、誰に挨拶をすることもなく黙って自分の席に着く。早く来たはいいものの何かをすることもないので、頬杖を突きながら昨夜の百々目鬼について思いを巡らしていく。どうすればまた遭えるのか。どうやって財布を取り返すか。どう消し去ってやるべきか。小影はだんだんと思考の海に耽っていった。
「――小影、おっはよー!!」
十分程経った頃だろうか。深い意識に潜っていた小影は、彼女へと掛かった声によって呼び戻された。声のした方を向くと、そこには青みがかった黒髪をポニーテールに括った少女が立っていた。彼女こそが小影の唯一の親友、妙護寺神奈である。
快活な笑顔で自らを呼ぶ神奈に少しだけ頬を緩め、自分も挨拶を返す。
「神奈、おはよ」
「ねぇ、てかさ。昨日のアレ、大丈夫だったの? 百々目鬼に会ったとかなんとか」
「あー……」
大丈夫と言われれば、決してそんなことはない。怪異は取り逃がした上、財布までも盗られたのだ。だが一方で、小影は言い澱んだ。それはひとえに、親友をあまり心配させたくはなかったからだ。
神奈の家、妙護寺家は地域でもかなり有名な霊媒師である。小影は昔からそんな妙護寺家と家族ぐるみの仲であり、怪異関係で神奈の家族に頼ることもよくあった。昨夜用いた護符も妙護寺家から貰ったもので、常に備えておくようにしていたのだ。
当然神奈とは幼馴染の関係であり、お互い相手のことはよく知っている。そういうこともあり、神奈は小影が言葉を詰まらせた意図をすぐに察した。
「もう、心配ぐらいさせてよね。うちの護符が効かなかったこととか、結局噂の通りになったこととか、全部送ってきたでしょ」
「それは、あの時結構ムカついてたから。愚痴みたいになっちゃったのはごめん」
「いやまあ、怪我とかはしてなさそうだから良かったけどさ」
実際、財布を盗られた以外の被害が無かったのは幸いだったことだろう。そのことを確認して、神奈は安堵の笑みを浮かべる。
「で、どうする? 今日うち来る?」
「ん、行く。色々対策とか必要だろうし」
「おっけー。なんなら泊まってきなよ」
「考えとく」
そんな話をしていると、教室内のどこかから「転校生が来たらしい」という声が聞こえてきた。その話題に、俄かに教室が騒がしくなる。神奈も興味を示したようで、どんな人が来るのだろうと思いを馳せ始める。しかし小影には心底どうでもよく、つまらなさそうに外を眺めた。誰がこのクラスに転入しようが、小影には興味の対象に入らなかった。
しばらくしてチャイムがなり、担任の教師が教室に入ってくる。それを合図に教室内は静まっていく。担任は静かになったのを確認すると、誰かが予告した通りに転校生の紹介を始めた。再びクラス内がざわつき始め、担任に呼ばれた転校生がドアを開けて入ってくる。
ふと、小影がその方に目を向けた。どこかで見た長身、長髪、胡乱な表情に、こちら側を見据えるその『眼』。そうして彼女の姿をしっかり捉えると、次第に小影の目が見開かれていった。
「私は報月蘭果という。皆、よろしく」
その女は、まさしく昨日の百々目鬼だった。唯一昨晩と違う点は、本来あるべき二つの目以外の、あのひしめき合った無数の眼が消えていることか。それ以外は一寸足りとも違わず、腰ほどまでの黒髪も胡乱な双眸もそのままに、あの女が制服を着込んでそこにいた。
あまりの出来事に驚きを隠せないでいた最中、あの女の双眸が小影を捉えた。すると女は、にっこりとこちらに笑みを向けたのだった。




