簾の向こうの姫
そして、ついに「竹取物語」の番がやってくる。
劇の前半は、クラスの男子たちが大真面目にふざけ倒すドタバタ劇だった。
若い先生の私物を盗もうとして怒られる貴公子、テストの満点答案を偽造して一瞬でバレる貴公子。
客席からは何度も大きな笑い声が沸き起こる。
その間、主役であるはずのかぐや姫──胡葉は、舞台中央に設えられた簾の向こう側で、じっと座り続けていた。
明日香が作ってくれた、あの十二単の衣装を身にまとって。
驚くほど重い衣装だった。
けれど、今の胡葉にはそれが心地よかった。
ただ座っているだけで、じわりと汗がにじむ。
けれど、動けないこの狭い空間は、決して「拒絶」のための檻ではなかった。
本物が来るまで、自分が本当に大切にしたいと思う瞬間に目が開くまでは、決して動かないという、静かな覚悟の場所だった。
「……月からの使者が、お迎えに参りました」
舞台が青い照明に切り替わり、厳かなBGMが流れ始める。
ついに、簾が開いた。
「──っ」
その瞬間、それまで「いつものがさつな佐久夜胡葉」のコメディ劇を期待していた全校生徒が、一斉に息を呑む音が聞こえた。
ステージのライトを浴びて現れたのは、誰も見たことのない、神秘的なお姫様だった。
全体的に柔らかな水色を帯びた、重厚な十二単。
舞台の強い光を吸い込んで、まるで深い夜の底のような上品な光沢を放っている。
竹の模様が、光の中で静かに浮かび上がっていた。
月の使者がゆっくりとかぐや姫に近づき、十二単の一番外側に羽織った唐衣をそっと外す。
身軽になったかぐや姫の肩に、天の羽衣がかけられようとしたその時、かぐや姫は小さく手を挙げて、使者を留めた。
「月に帰るために、天の羽衣を身につけると、ここでの記憶はすべて無くなってしまうといいます」
胡葉の声が、静まり返った体育館に響く。
その声は、いつものぶっきらぼうなトーンとは違い、どこか切なく、震えていた。
「その前に、伝えておきたい……。本当は、ずっとここに、いたかった。月とは違い、この地上では、たとえ姿は見えなくなっても、人の思いは香りのように残り続けるから」
そっと袖で涙を拭う仕草をする。
その指先、首の角度。
とても気品のある優雅な動きだった。
「おじいさん、おばあさん。長い間、私を育ててくれて、本当にありがとう」
使者が天の羽衣を胡葉の肩へと滑らせた瞬間、舞台の全照明がパッと落とされた。
次の瞬間、かぐや姫をスポットライトが包み込む。まるで、満月の光の中に彼女だけが閉じ込められたかのようだった。
さらに、流れるような光の束が舞台の後方からかぐや姫を照らす。
光の束が背後から流れ、胡葉の黒髪や、透き通るような羽衣をキラキラと透過させた。
まるで後光が差しているかのような、この世のものとは思えない幻想的な光景。
流れるような、悲しくも美しい音楽。
かぐや姫は舞台袖に向かって、一歩、また一歩と、名残惜しそうに摺り足で歩いていく。
そして、舞台の端にたどり着いた瞬間。
胡葉は、客席に向かってチラリと振り返った。
麗奈から授かった、日本舞踊の「見返り」の所作。
裾のラインが美しい螺旋を描き、立体的な美しさが舞台上で完成する。
目線の配り方──ただ客席を見るのではない。
そこにいる、一番大切な人を探すような、地上への引き裂かれるような未練を込めた目線。
まさにその瞬間、佐久夜胡葉は完全に物語から抜け出てきた本物のかぐや姫だった。
体育館中の誰もが、声を出すことすら忘れてその美しさに釘付けになっていた。
かぐや姫が舞台袖の暗闇に消えると同時に、スポットライトが消え、BGMが静かにフェードアウトしていく。
完璧な静寂が訪れた舞台に、再び通常の照明が戻った。
「……かぐや姫は、行ってしまった……」
舞台に残されたおじいさんが、かぐや姫の残した唐衣を手にして、ポツリと本当に寂しそうな声で言葉を呟く。
その瞬間、我に返った客席から、地鳴りのような割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こったのだった。
拍手の地鳴りが遠くで鳴り響く舞台袖、暗転した瞬間に胡葉の張り詰めていた糸は切れていた。
重い衣装を引きずりながら楽屋のパイプ椅子になだれ込んだ胡葉の元へ、バタバタと激しい足音が近づいてくる。
「胡葉──っ!」
飛び込んできた明日香が、胡葉の身体に強く抱きついてきた。
「最高……最高に綺麗だったよ、胡葉! 私、途中で本当に涙が出ちゃって……!」
勢いよくぶつかってきた明日香の体温が、カーテンの生地を通して胡葉の肌へとダイレクトに伝わる。
その瞬間だった。
抱きしめられた胡葉の鼻腔を、明日香の髪から漂う匂いがくすぐった。
──あっ。
脳裏の奥で、何かがパチンと音を立てて爆ぜた。
劇の前に、指先ではじけたあの鮮烈な穂じその香りが、明日香の髪の匂いと重なり合って、強烈にフラッシュバックする。
心臓が、今までにないほど激しく肋骨を叩いた。
これまで「初めての十二単に緊張しているだけ」だとか「衣装が重くて息苦しいだけ」だとか思っていたのが、そんな理論はすべてガラクタのように崩れ去っていく。
感情が、一気に本質として弾けていく。
理由なんて、本当はどうでもよかった。
今、自分の腕の中にいる明日香の体温と、この匂いだけが、世界のすべてのように思えた。
「ちょっと、明日香……苦しいってば」
胡葉は、かすれそうな声をなんとか絞り出して笑った。
明日香の手を借りて、ようやく水色の重い衣装を脱ぎ捨てる。
肩は一気に軽くなり、物理的な解放感が訪れた。
──けれど、胡葉は気づいてしまった。
衣装を脱いで軽くなったはずの胸の奥には、今、一生脱ぐことのできない「十二単よりも重い鎧」を装着してしまったのだということに。




