はじける穂じそ
そして迎えた、文化祭の本番当日。
体育館の裏手にある控室で、胡葉は完全に緊張に呑まれていた。
朝から食事が喉を通らず、青い顔をして固まっている。
そこに、出番前のバタバタした様子で明日香がやってきた。
「胡葉、大丈夫? はい、これ食べて」
手には、小さなプラスチック容器に入ったちらし寿司が握られている。
「これね、私のママが胡葉のために作ってくれたの。少しでも食べたら、緊張がほぐれるよ」
「ありがと……。でも、なんか本当に胸がドキドキして、吐きそう……」
胡葉がおずおずと蓋を開けると、色鮮やかな酢飯の上に、小さな紫色の花をつけた穂じそがちょこんと乗っていた。
いつもの癖で、胡葉がそれを箸で端っこに除けようとする。
「あ、待って。それね、ただの飾りじゃないんだよ」
明日香が優しく胡葉の手を止め、バラバラと実を削ぎ落としてみせた。
「こうやって、指で花を散らすの。そうするとね──」
まるで、パチンと小さな音がするみたいに、穂じその身が弾けた。
その瞬間、閉じ込められていた鮮烈な、清涼感のある香りが一気に室内に広がった。
それは、甘酸っぱい酢飯の匂いと混ざり合い、胡葉の鼻腔を劇的に突き抜ける。
「──っ!」
胡葉はハッとして、息を大きく吸い込んだ。
あまりに鮮やかで、どこか懐かしい香りに、一瞬呼吸を忘れるほどだった。
「ほら、胡葉。息吸って、吐いて。大丈夫、大丈夫だから」
明日香の温かい声に導かれるように、ゆっくりと息を吐き出す。
不思議なことに、その爽快な香りで、胃のあたりの不快な塊がすっと消えていくのが分かった。
一口、ちらし寿司を口に運ぶ。
穂じその風味と酢飯の完璧な化学反応が、胡葉の味覚を優しく、力強く覚醒させた。
「……美味しい。すごく、良い香り」
「でしょ? 飾りだと思ってたものにも、ちゃんと意味があるんだよ」
明日香は嬉しそうに胸を張った。
ただの彩り、あってもなくてもいい飾りだと思っていたものに、これほど世界を一変させる力があるなんて。
遠くから、第一幕の始まりを告げる音が聞こえてくる。
明日香が仕込んでくれた、重い十二単の衣装が、すぐそこで出番を待っていた。
五感が極限まで研ぎ澄まされた胡葉は、ゆっくりと立ち上がり、自分の戦場へと一歩を踏み出した。
劇のアナウンスが体育館に響き渡り、いよいよ文化祭の舞台の幕が上がった。
まず上演されたのは、隣のクラスによる「ロミオとジュリエット」だった。
きらびやかな中世のドレスに身を包み、舞台中央に立った九条麗奈のジュリエットは、まさに完璧の一言だった。
指先の角度、響き渡る声の鈴のような美しさ、そしてロミオを見つめる一途な瞳。
客席の誰もが彼女の可憐さに目を奪われ、ため息を漏らしていた。
神社の境内で泥にまみれて練習していた姿を知っている胡葉は、舞台袖の暗闇から、その姿をじっと見つめていた。
(やっぱり、すごいな……麗奈さんは)
劇は大きな拍手に包まれて幕を閉じた。
大成功だった。
一つだけ……終わった後舞台袖に引っ込んだときに、麗奈に起こった小さなアクシデントを除けば……




