見返りの月影
麗奈に見せてもらったあの「見返り」の動きが、どうしても胡葉の頭から離れなかった。
──身体を先に。腰、肩、最後に首──
目を閉じれば、あの夕暮れの神社、西日に照らされながら舞うように振り返った麗奈の姿が鮮烈によみがえる。
ただ振り向くだけの動作なのに、そこには地上への未練をこれ以上なく滲ませる、胸を締め付けるような美しさがあった。
「……ちょっとだけ、やってみるか」
その日の夜。風呂上がり、パジャマ姿の胡葉は、自分の部屋でこっそり鏡に向き合っていた。
当然、手元に十二単も天の羽衣もない。
代わりに、リビングのソファに置いてあった母親の薄手のストールを拝借し、それを肩から羽織ってそれっぽくしてみる。
「まず、身体……で、肩……最後に、顔……」
鏡に映る自分を見ながら、ぎこちなく一歩を踏み出してみる。
「──違う」
思わず、自分でツッコミを入れた。
なんか変だ。動きが直線的すぎるというか、無理をして首をひねっているだけにしか見えない。
ゆっくりと、足元から身体を捻っていく。
けれど、普通に振り返るのとは勝手が違い、どうしても身体全体が一緒に回ってしまう。
勢いをつけすぎると、肩にかけたストールがバサリと無様に広がってずり落ちた。
「……あ、違う。もっと、ギリギリまで前を向いてるんだ」
──タメによる気品と余韻──
もう一回。今度は麗奈の言葉を思い出しながら、足元を摺り足っぽく意識してみる。
ストールをかけ直し、もう一度。
今度は、顔だけを鏡に残すつもりで、極限まで首を残した。
腰が回り、肩が回り、最後に弾かれるように首が振り返る。
その瞬間、遅れて動いたストールの端が、ひらりと胡葉の身体に吸い付くように遅れて巻き付いた。
鏡の中の自分が、ほんの一瞬だけ、切なげに引き留めるような「かぐや姫」の輪郭を帯びた気がした。
(……あ)
ほんの一瞬だけ、歯車が噛み合ったような感覚があった。
鼓動がトクン、と跳ねる。
自分の身体が、ほんの少しだけ物語の世界へ溶け込んだような、不思議な手応え。
けれど、麗奈のあの、胸が苦しくなるほどの美しさにはまだ遠い。
胡葉は額に張り付いた髪を払い、何度も、何度も鏡に向かって身体をひるがえした。
「姉ちゃーん!」
バンッ!と激しい音を立てて、突然ドアが開いた。
「うわぁっ!?」
心臓が飛び跳ねるほど驚いた胡葉の前に立っていたのは、小学生の弟だった。
開いた口が塞がらないといった様子で姉を見つめ、次の瞬間、腹を抱えて大爆笑し始めた。
「なにしてんの!? 変な踊り!? あははっ、姉ちゃん超変!! 」
「ち、違っ……! これは文化祭の練習で!」
「うわ、マジだ! 変な姫様〜! 月に帰る前に病院行った方がいいよ!」
「うるさいっ!!」
真っ赤になった胡葉は、ベッドの上のクッションを掴んで投げつけたが、弟はケラケラ笑いながら器用にそれを避けた。
「母ちゃーん! 姉ちゃんが部屋で変な踊りしてるー!」
「ちょっと、あんた待ちなさい!」
最悪だ、と胡葉は頭を抱えた。絶対にからかわれる。
急激に顔が熱くなり、猛烈な恥ずかしさが押し寄せてくる。
やっぱり、アタシなんかにかぐや姫の真似事なんて、似合うわけがなかったのだ。
自己嫌悪に陥りかけた、その時だった。
「……変じゃないわよ」
背後から届いた静かな声に、胡葉は肩を震わせて振り返った。
開いたドアの向こう、廊下に洗濯物の籠を抱えた母親が佇んでいた。
「え?」
「今の、もう一回やってみて」
母親は少し目を細めると、部屋の真ん中でストールを羽織ったまま固まっている胡葉をじっと見つめた。
「いや、無理! 恥ずかしいって!」
「お願い。ちゃんと見たいの」
いつものように「早く寝なさい」と急かすトーンではなかった。
からかう色なんて微塵もない、本当に娘の姿を見たいと思っている、真剣な母親の顔だった。
胡葉は居心地悪そうに、ガシガシと首の後ろを掻いた。
「……変だからって、絶対に笑わないでよ」
「笑わないわよ」
観念して、胡葉はもう一度部屋の中央に立った。
深く、息を整える。
恥ずかしさを頭から追い出し、麗奈のあの流れるような残像だけを意識する。
身体を先に。
肩。
最後に首を残して──振り返る。
静かに、ストールが空気の波を捉えてふわりと揺れた。
部屋の中に、短い沈黙が降りる。
ふと見ると、母親は少し驚いたように目を見開いていた。
「……綺麗ね」
「え」
「なんだろう。一瞬、ちゃんと、お姫様に見えたわ」
さっきまで騒いでいた弟まで、ぽかんとした顔で胡葉を見上げている。
「……え、なんか今、ちょっとすごかった。姉ちゃんじゃないみたい」
「でしょ? ちゃんと練習してるのね」
母親は嬉しそうに微笑むと、洗濯籠を抱え直して廊下を歩いていった。
残された胡葉は、自分の手元を見つめたまま、思わず言葉を失っていた。
明日香にも、ぜったい似合うと言われた。
けれどそれは、衣装を作っているからだと、お世辞とも捉えていた。
けれど、家族が──しかも、普段はお世辞なんて絶対に言わない母が、全く同じ言葉をくれた。
指先から、じんわりと熱が広がっていく。
胸の奥が、熱い塊で満たされていくのが分かった。
「……そっか」
鏡の中の、まだパジャマ姿の不格好な自分に向かって、胡葉は小さく笑いかけた。
なんだ。もしかして、本当に。
ほんの少しだけなら。
アタシだって、あの綺麗なかぐや姫になれるのかもしれない。
「ねえ姉ちゃん、もう一回やって!」
「うるさい! もう寝なさい!」
弟を部屋から追い出しながら叫んだ胡葉の声は、さっきまでとは違って、隠しきれない期待で少しだけ弾んでいた。




