剥がれ落ちた仮面
文化祭が目前に差し迫った、ある秋の夕暮れ時のことだった。
その日、胡葉は劇の演出で使う小道具を買い足すため、一人でいつもとは違う通学路を歩いていた。
西の空が燃えるような茜色に染まり、影が長く伸びている。
ふと、高台にある古びた神社の境内から、張り詰めた声が聞こえてきた。
「違う……! ここはもっと、胸を張って……ああ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの……っ」
気になって石段を上り、境内をそっと覗き込んだ胡葉は、思わず息を呑んだ。
誰もいない拝殿の前で、一人きりで何度もステップを踏み、身振り手振りを交えて台詞を繰り返している女子生徒がいた。
九条麗奈だった。
普段の麗奈といえば、何をやらせてもそつなくこなす、天性の天才肌というイメージだった。
けれど、今の彼女は髪を振り乱し、膝を泥で汚しながら、同じセリフを何度も何度も、それこそ喉が枯れるほど猛烈に練習していた。
「ハァ、ハァ」と上がった息を整え、汗を拭う。
ふと、練習を止めた麗奈だが、ぽつりと気になることが口に出てくる。
「岸本くん、私のことみてくれるかなぁ」
「ふぁ!?」
思わず、声が出てしまう胡葉だった。
「……っ! 誰!?」
麗奈が鋭い目付きで振り返った。
胡葉が踏んだ枯れ葉の音がやけに響く。
「あ──ご、ごめん。邪魔するつもりはなかったんだけど……」
「見てたのね? 私の練習……まさか、さっきの独り言も……?」
麗奈はみるみるうちに顔を真っ赤にし、屈辱に肩を震わせた。
その完璧な仮面が完全に剥がれ落ちた表情を前に、胡葉は気まずそうに目を逸らす。
短い沈黙の後に、おずおずと聞いてしまう。
「麗奈さん、もしかして……岸本のことが好きなの?」
「……悪いの!?」
僅かな時間、下を向いていた麗奈は、開き直ったように叫んだ。
その瞳には、うっすらと涙さえ浮かんでいる。
「そうよ、私は岸本くんのことが好きなの! それなのに、いっつもあなたは彼の近くにいて、雑に笑い合って……悔しくてたまらないわよ! 私の岸本くんを取らないで!」
「岸本を取るって……いや、あいつは別にアタシのものじゃないし。そもそも、あんなお調子者のどこがいいわけ?」
「あなたには分からないでしょうね! 何も考えていないふりをして、いつも自然体で彼の隣にいるあなたには!」
「うーん、別にふりをしているわけじゃないけど、たしかに分からないかも。あっそうだ、アタシから岸本に、麗奈さんのこと伝えてあげようか」
「やめてぇぇ……! もしそれでフラれたら、私……っ。私は、いつだって完璧で、誰からも憧れられる九条麗奈でいなきゃいけないのよ! 惨めにフラれる私なんて、あっていいはずがないわ……!」
「そっそういうものかなぁ。恋愛とかあんまりわかんないけど。……正直、驚いた。麗奈さんって、最初から何でもできる天才タイプかと思ってたから」
「失礼ね。私はいつだって、人が遊んでいる間に努力してきたわ。勉強も、ピアノも、作法も……でも、恋愛だけは……これだけは、教科書通りにいかないのよ。」
麗奈は胸元をぎゅっと掴み、感情を吐き出すように言葉を続けた。
「あの時だってそうよ。彼、あなたがパセリを避けたのを見て、楽しそうに笑ってたじゃない。あんな些細なことで笑い合える関係が、私には……どれだけ努力して、完璧な自分を演じても手に入らないの……!」
パセリ……
あんな、あってもなくてもいい飾り。
胡葉は呆然とした。
この完璧なお嬢様が、自分がパセリを避けたみたいな些細な日常に、これほど傷つき、羨んでいたなんて思いもしなかった。
「だから、劇で見せつけてやるわ。私が一番美しくて、彼にふさわしいヒロインだってことを。ねえ、佐久夜さん。あなた、絶対に手を抜かないで。本気でやりなさい。中途半端な主役に勝っても、私の気が済まないんだから!」
激しい対抗心。
けれどそこには、ドロドロした悪意ではなく、彼女なりの必死なプライドと努力が詰まっていた。
胡葉の胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「そっか……」
胡葉は、もう一度、泥で汚れた麗奈の膝を見た。
完璧なお嬢様で、何でもできる天才。
そう思っていた。
でも違った。
誰もいない神社で、声が枯れるまで練習して、好きな人のことで悩んで、悔しくて、必死になっている。
この人は、自分よりずっと本気で舞台に向き合っている。
だったら──。
「……ねえ、麗奈さん」
「なによ」
「ちょっと、相談していい?」
胡葉は、ずっと一人で悩んでいたことを思い切って口にしてみた。
「かぐや姫が月に帰るシーンなんだけど、なんか締まらないのよね。動きにくい衣装のなかで、ただ手を振るだけじゃなんだか違う気がして」
「かぐや姫が月に帰るシーン……」
麗奈は、毒を抜かれたように一瞬きょとんとしたが、すぐにすっと顎に手を当て、真剣な目になった。
──これほど自分が妬んでいた相手が、いま、自分を頼っている。
気づけば悔しさや気恥ずかしさは消え、「誰かに求められたら、完璧な自分、いや、それ以上で応えなければならない」という彼女の性分が、今度は心地よい義務感となって頭をもたげていた。
「あのシーンは、かぐや姫も──本当は地上を去りたくない──っていう未練を滲ませるのが正解よ。そうだわ、こんな動きはどうかしら。私、日本舞踊を習っているんだけど……」
夕暮れの境内で、二人は初めて、ライバルとして真っ直ぐに向き合って笑った。




