被服室の秘密基地
夏休みが本格的に始まると、学校の被服室は二人の「秘密基地」のようになった。
外からはセミの鳴き声がうるさいほどに聞こえてくるが、クーラーの効いた室内には、規則的なミシンの駆動音と、ハサミが布を断つ軽快な音だけが響いている。
千春が持ってきた厚手のカーテンから、明日香の見事な手際によって、十二単の華やかな主役となると表着の形が次々と切り出されていった。
しっかりとしたカーテンの生地は、まるで本物の高価な織物のようだ。
「よし、胡葉。ちょっと合わせてみるから、そこに立って」
「はーい」
胡葉は言われるがままに、部屋の中央で両手を軽く広げた。
叔母さんのスタジオの時と同じく、ここでも胡葉は完全に明日香の「着せ替え人形」だ。
けれど、あの日感じた窮屈さは不思議となかった。
むしろ、少しずつ形になっていく衣装を身にまとうたびに、胸の奥がじんわりと温かくなるような、奇妙な嬉しさが込み上げてくる。
ダダダダ、と明日香がミシンを動かす。その横顔は真剣そのもので、額にうっすらと汗を浮かべていた。
トントン、と被服室の引き戸が遠慮がちに叩かれたのは、そんなある日の午後だった。
「おーう、やってるな。差し入れ持ってきてやったぞ」
現れたのは、部活帰りなのか、首にタオルをかけた岸本くんだった。
手には冷えたスポーツドリンクのペットボトルがいくつか握られている。
「わあ、岸本くん! ありがとー、ちょうど喉乾いてたんだよね!」
明日香が嬉しそうにそれを受け取る。
岸本くんは「おう」と笑いながら、布地に囲まれて身動きの取れない胡葉に視線を向けた。
「なんだよ胡葉、それ。なんか……まだ途中だけど、すげえな。お前じゃないみたいだ」
「うるさいなぁ。着せ替え人形でヘトヘトなんだから、冷やかすなら帰ってよね」
「冷やかしてねえって。……じゃあな、熱中症気をつけるんだぞ」
岸本くんは照れくさそうに頭を掻くと、そそくさと被服室を去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、明日香がにやにやと胡葉の顔を覗き込んでくる。
「ねえ胡葉。今の見た? 岸本くん、完全に胡葉のこと男子の目で見てたよ。やっぱり人気あるんじゃん」
「ないない。あいつはただのパセリ。お弁当のパセリと一緒。あってもなくても変わんない存在なの」
フン、と鼻を鳴らして一蹴する胡葉。しかし、その直後のことだった。
「はいはい、じゃあ作業再開。ちょっと襟元、ずれてるから直すね」
明日香がすぐ目の前に進み出て、胡葉の首筋にそっと手を伸ばした。
細くて、少しひんやりとした明日香の指先が、胡葉の剥き出しのうなじに触れる。
「──っ」
胡葉の身体が、ビクリと強張った。
至近距離にある、明日香の大きな瞳。
まつ毛の長さまで分かるほどの距離で、彼女は真剣な眼差しで胡葉の首元のラインを見つめている。
明日香が呼吸をするたび、その髪から、ふんわりとした香りが漂って、胡葉の鼻腔をくすぐった。
ドクン、と心臓が大きな音を立てる。
血の気が一気に顔に集まり、耳の奥が熱くなるのが分かった。
「ちょっと、明日香……! 少し襟、閉めすぎじゃない? なんだか、すごく息苦しいよ……っ」
「え? ごめんごめん。でも、そんなにキツくは閉めてないんだけどなぁ……これくらいじゃないと、綺麗にできないんだよ」
明日香は不思議そうに首を傾げながらも、指先を離して少しだけ布を緩めてくれた。
物理的な圧迫感は消えたはずなのに、胡葉の胸のドキドキは一向に収まらない。
それどころか、喉の奥が詰まったように呼吸が浅くなっていく。
(何これ……。やっぱり、この衣装は重くて、息苦しいなぁ……)
激しく脈打つ胸を押さえつつ、胡葉はそんなことを考えていた。
「でもさ」と、明日香は布のシワを伸ばしながら、愛おしそうに微笑んだ。
「この不自由な感じが、きっと胡葉にしか出せない”色”になるんだよ。胡葉のここ、首筋から手首にかけてのラインって、本当に本当に綺麗だから。私、絶対に世界一綺麗なかぐや姫にしてみせるからね」
「……、……バッカじゃないの。大袈裟なんだってば」
胡葉は慌ててそっぽを向いた。真っ赤になった顔を見られたくなくて、わざとがさつな声を出す。
けれど、胡葉の首筋は、いつまでも火傷をしたように熱いままだった。
そんな様子を、少し離れた廊下の窓際から、麗奈は黙って見つめていた。
被服室の扉は半分ほど開いていて、中の笑い声が時折こちらまで漏れてくる。
岸本くんが差し入れを渡しながら、胡葉を見て笑っていたこと。
胡葉が、照れ隠しみたいに乱暴な口調で返していたこと。
その空気が、あまりにも自然だったこと。
麗奈は唇をきゅっと結ぶ。
(……なによ、あれ)
胸の奥が、じくりと痛んだ。
自分はずっと、「綺麗でいること」を頑張ってきた。
姿勢も、言葉遣いも、笑い方も。
人に好かれるために、嫌われないために、ずっと「ちゃんとした九条麗奈」を演じ続けてきた。
けれど胡葉は違う。
大口を開けて笑って、
男子と肩をぶつけ合って、
恋愛なんて分からないと言いながら、
それでも自然と人の中心にいる。
岸本くんが胡葉を見る時の目を、麗奈は知っていた。
あれは、「クラスメイトを見る目」ではない。
(……ずるい)
思わず、心の中で吐き捨てる。
さらに、その視線は被服室の中央へ向いた。
試作途中の水色の衣装をまとった胡葉が、明日香に袖を整えられている。
長い裾。
重たげな布の重なり。
未完成のはずなのに、窓から差し込む夏の光を受けて、それは驚くほど神秘的に見えた。
麗奈の胸が、ざわりと波立つ。
(なにあれ……)
一瞬、呼吸を忘れた。
悔しい。
本当に悔しい。
なのに、目が離せない。
胡葉は、自分では何も分かっていない顔をしながら、
あんなふうに人を惹きつけてしまう。
まるで、本当に物語の中から出てきたかぐや姫みたいに。
(……負けたくない)
じわり、と胸の奥で熱が燃え上がる。
恋でも。
舞台でも。
「誰かに選ばれること」でも。
絶対に負けたくない。
麗奈はしばらくその場に立ち尽くしたあと、逃げるように踵を返した。
けれどその横顔には、悔しさだけではない、どこか高揚したような熱も宿っていた。




