二十キロの拘束衣
麗奈に言われた言葉は、抜けない刺のように胡葉の胸の奥に残ったままであった。
けれど、季節はそんな中学生の些細な葛藤を置き去りにして、あっという間に夏休みの足音を響かせ始める。
七月、期末テストが終わった日の放課後。
教室の隅で、明日香がノートを広げながら唐突に声を上げた。
「かぐや姫と言えば、やっぱり十二単でしょ!」
「……は? じゅうに、何だって?」
胡葉は、机に突っ伏したまま眠そうな目を向けた。
「十二単だよ。ほら、何枚も着物を重ねて着るやつ。文化祭の劇、やるからには衣装も本格的にしたいじゃない? 実はね、私の叔母さんがスタジオカメラマンをしていて、貸衣装として本物の十二単を持ってるの。今度、一緒に見に行かない?」
「電車で一時間くらいかかるけどさ」と付け足す明日香の目は、完全にきらきらとした「オタクモード」に入っている。
「いや、見に行くって……ただ見るだけでしょ?」
「いいからいいから! イメージを膨らませるためにも、本物を見るのは大事だよ!」
結局、明日香の勢いに押し切られる形で、胡葉は夏休み直前の休日に電車に揺られることになった。
ガタゴトと鳴るローカル線に揺られ、一時間。
到着したスタジオは、古い一軒家を改装したレトロでお洒落な空間だった。
出迎えてくれた明日香の叔母さんは、短い髪にカメラをぶら下げた、いかにも「芸術家」といった風の快活な女性だった。
「いらっしゃい! あなたが明日香の言ってた胡葉ちゃんね。うん、なるほど……」
叔母さんは胡葉の顔をじっと見つめると、不意にニヤリと笑った。
その瞳の奥に、クリエイター特有の強いインスピレーションの炎が灯るのを、胡葉は見逃さなかった。
嫌な予感がする、と思った時にはもう遅かった。
「せっかくだからさ、見るだけじゃなくて着てみない? 胡葉ちゃん、絶対に映えるわよ」
「えっ!? いやいや、アタシなんかそんな──」
「いいじゃん胡葉! 着てみようよ! 私、着付け手伝うから!」
あれよあれよという間に、胡葉はスタジオの奥にある畳敷きの更衣室へと連行されてしまった。
十二単は、一人で着られるものではない。
叔母さんと明日香の二人がかりで、胡葉を中央に立たせて着付けが始まった。
ここからの時間は、胡葉にとって未知の体験の連続だった。
彼女は完全に、なすがままの「着せ替え人形」状態になる。
──衣が擦れ合う、さらさら、という涼やかな音。
襦袢を体に合わせ、帯を締める時の、キュッという音。
それらのリアルな音が、狭い部屋の中でやけに大きく響く。
そして何より、胡葉の鼻腔をくすぐったのは、その着物自体から漂う香りだった。
古い衣装特有の樟脳の匂いではない。
それは、どこか清涼感がありながらも、ふんわりとした温かい甘さが残る、不思議な、けれど心地よい香りだった。
「ちょっと、じっとしててね。襟元合わせるから」
明日香がすぐ目の前に立ち、真剣な目付きで胡葉の胸元を整える。
その瞬間、胡葉の胸の奥が、どくん、と大きく跳ね上がった。
(え……? 何これ)
今まで感じたことのない、妙な胸の高鳴り。
視界が急に狭くなり、明日香の真剣な横顔ばかりが大きく映る。
胡葉は慌てて心の中で首を振った。
(違う違う、これは初めての十二単に緊張してるだけ。立派な衣装に怯えてるだけだ……!)
自分に必死に言い訳をしている間にも、着物は容赦なく重ねられていく。
緑、紅、紫。
美しいグラデーションが胡葉の体を包み込んでいく。
「よし、これで最後! 完成!」
叔母さんの声が響き、胡葉は一歩を踏み出そうとした。
──が、その瞬間、凄まじい衝撃が体中を駆け巡る。
(……お、重っっっ!!!)
信じられないほどの重量が、ずっしりと肩にのしかかってきた。
合計で約二十キロ。
しかも、裾が長すぎて足元が全く見えない。
少しでもいつも通りに動こうとすると、たちまち裾を踏んで転びそうになる。
(何これ……衣装っていうか、ただの拘束衣じゃん……!)
内心で盛大に悪態をつく胡葉だったが、カメラを構えて満足そうに頷く叔母さんの手前、口に出すわけにはいかなかった。
「……動けないんだ、これ」
胡葉は、床に広がる鮮やかな絹の海を見つめながら、ぽつりと呟いた。
──逃げることもできないし、自分から誰かに近づくこともできない。
その不自由さに直面した時、胡葉の脳裏に、あの「竹取物語」の物語が浮かんだ。
かぐや姫が男たちに無理難題を吹っかけたのは、性格が悪かったからじゃない。
こんな風に「動けない」自分を守るため、近づかせないための、必死の防壁だったのかもしれない──。
重さに耐えかね、胡葉は仕方がなく、ゆっくりと、摺り足で慎重に体を動かした。
必然的に、その動作はいつものがさつさを失い、信じられないほどスローになる。
「わあ……」
それを見ていた明日香が、感極まったような声を漏らした。
「すごいよ胡葉……。動きがすごく優雅で……本当に綺麗」
明日香の真っ直ぐな、熱を帯びた視線が、胡葉を射抜く。
その瞬間、胡葉の心臓は、さっきの「着付けの緊張」とは比べものにならないほどの勢いで、ドク、と激しく脈打った。
体の芯がカッと熱くなる。
(き、綺麗だって言われたからだ。普段そんなこと言われないから、ビックリしただけ……)
胡葉は心の中でそう結論づけた。
「……そう? それなら、こういう動きを練習すれば、かぐや姫っぽくなるのかな」
照れ隠しに小さく笑いながら、胡葉はゆっくりと袖を翻した。
心の奥底に灯った「また、綺麗だと言われたい」という小さな、けれど確かなモチベーション。
胡葉自身もまだその正体に気づかぬまま、彼女の「かぐや姫」への挑戦が、静かに幕を開けたのだった。




