第9章 西崕の帰還
天保十五(1844)年になった。タマキにとっては萩に来てから二度目の年越しである。周布政之助と来島光次郎の協力により無事キクを身請けしたタマキは、鍛冶場小屋の隣にある家でキクと仲睦まじく暮らしている。その一方で、村田清風の失脚により、長州藩における自分の立場がどんどん悪くなっているのも、タマキはひしひしと感じていた。
(そろそろ萩ともおさらばかな?・・・)
長州藩で村田清風が失脚した前年の六月、実は幕府内でも大変動が起きていた。天保の改革を主導してきた老中・水野忠邦が失脚したのである。水野の失脚により役職から外されていた窪田清音が復職した。それもあってタマキは江戸へ戻ることを考え始めたのだが、そんな矢先、タマキを喜ばせる知らせが届いた。羽様西崕が京から戻って来たというのである。夕方、仕事が終わると、タマキは喜び勇んで西崕の家へ向かった。
「おお、山浦さん、お久しぶりです」
西崕はタマキの顔を見るや、以前と変わらぬ快活さで歓迎した。タマキも満面の笑顔で「西崕さん、お帰りなさい」と応えた。さっそく二人は西崕の部屋で酒盛りを始めた。
「藩庁へ帰還の報告をしに行った時、周布さんから聞きましたよ。わたしが萩を留守にしていた間、来島光次郎を味方にして、椋梨藤太一派と争っていたんですって?」
「争うなんて、そんな大袈裟なものじゃありませんよ」
「椋梨は我ら村田清風派の宿敵ですからね、再び争いが起きたら、今度はわたしも助っ人に加わりますよ」
長州藩における現在の自分の立場を考えると、椋梨藤太と争うとかそういうきな臭い話題は避ける方が賢明だった。そこでタマキは、
「あ、そうだ。忘れないうちに」
と、持参した包みから朱色の鞘に収まった短刀を取り出した。
「西崕さんが京へ行く前にお約束していた短刀です。どうぞ」
西崕はタマキから手渡された短刀をすらりと抜き、刀身を目の前にかざした。
「これはまた見事な・・・一段と腕を上げましたね、山浦さん」
「ありがとうございます」西崕が短刀に見惚れ、しきりに感心している姿を見たタマキは、笑顔で頭を下げた。「萩に来て、極上の玉鋼で刀を造るのに夢中になっていたら、わたしの腕も少しばかり上がったみたいです」
「少しばかりじゃありませんよ、これは。凄いです、山浦さんは」そう言いながら西崕は短刀を鞘に収めた。「こんな素晴らしい芸術品をいただくのは些か心苦しいのですが・・・」
「わたしは西崕さんに貰って欲しいのです」
「そうおっしゃってくださるのなら遠慮なく頂戴いたします」
西崕は短刀を両手で掲げて一礼した後、自分の脇にそっと置いた。
「西崕さんの方はどうなんです?」笑顔でタマキが尋ねた。「京へ行って、ご自分の絵が見つかりましたか?」
「見つかりました」西崕の顔が急に陰鬱な表情に変わった。「自分は北斎にも広重にもなれないという現実が見つかりました・・・京で・・・身に染みて・・・」
「え?」
タマキは驚いて絶句した。
「自分の才能の限界というものが見えたのです。わたしは絵描きとしては二流だ。どう頑張っても大天才・北斎のような一流の絵描きにはなれない」
「そんな・・・」
「しかしね、山浦さん」と、西崕は微笑んだ。「二流だから価値が無いというわけではないのですよ。二流には二流の良さがある。わたしはそう思うのです」
「そうですよ。その通りです」タマキも少し笑顔になった。「そもそも絵に対して一流とか二流という格付けは意味が無いと思います。好きだと思えば、その人にとってその絵は一流です。わたしは西崕さんの絵が大好きですので、わたしにとって西崕さんは一流の絵師です」
「ありがとうございます。わたしの絵を愛してくれて」西崕は頭を下げた。「それにわたしはもう一つ、こんなわたしにもできることがあると思っているのです」
「は? それは何でしょう?」
「後進の育成です。わたし自身は絵描きとして二流でも、若い人材を育成して一流の絵描きにすることはできるかもしれない」
「できます。西崕さんならできますよ」
「わたしの後半生は後進の育成に力を注ぎたいと考えております」
「それは良い。西崕さんほど教育者に向いた人はおりません。わたしは自信を持ってそう言い切れます」
「ありがとうございます。実は今わたしは、絵だけではなく、別のものも教えたいと考えているのですよ」
西崕がそう言ったので、タマキは「絵以外のもの? 学問ですか?」と訊いた。
「時勢です」
「時勢? たしかその言葉は同郷の佐久間象山という人から聞いたことがあります」
「京はやはり我が国の都ですね。様々な面で進んでいます。萩にいると、のんびりしていて、外からの情報もあまり入ってこないから、まるで時間が止まっているかのような錯覚に陥りますけど、京は違います。時代が目まぐるしく動いているのが、ひしひしと感じられました。京へ行って、わたしはずいぶん啓蒙されましたよ」
「はぁ」
「山浦さんは、我が国でいちばん偉い人は誰だと思いますか?」
「いちばん偉い人? そりゃあ江戸の将軍さまでしょう?」
「ちがいます」西崕はきっぱり答えた。「京におわします天子さまです」
「天子さま?」
「今、尊王攘夷という言葉が、京にいる知識人の間でよく話題に上ります」
「尊王攘夷? 何ですか、それは?」
「天子さまを尊び、外敵である異国人を斥けようという考えです」
「そういえば佐久間象山さんも、お隣の清国が異国人の侵略を受けているという話をしておりました。たしか阿片とかいう麻薬をどうかしたと・・・」
「我が国も同じように狙われています」
「恐ろしいですね」
「異国人の侵略から我が国を守らなければならない。しかし、徳川幕府にはもうその力が無い」
「そうなんですか?」
「幕府の土台は腐っています。朱子学で頭がゴリゴリに固まった、時勢も何もわからないし、わかろうともしない、時代遅れの連中が中枢を担っているからです」
「ほお」
「実は我が長州藩にも土台が腐っていた時期がありました。しかし、長州藩には村田清風という稀代の英雄が現れ、藩政を改革し、貿易をさかんにして、財政を建て直した」ここで西崕は表情を曇らせた。「いや、実際は財政を建て直しつつある最中に職を解かれたわけですが・・・」
「はい」
「ご家老には再び政権の中枢に返り咲いて頂きたいものです」
「そうですね」
失脚した村田清風は中風を病み、田舎に隠棲している。
「話を戻しますけど、幕府もご家老と同じ事をやれば良いのです。せっかく長崎に出島という異国への窓口を持っているのですから、貿易で金儲けをして幕府を建て直せば良い。ところが、奴らはそうしようとしない。昔、田沼意次という老中がやろうとしましたけど、周囲のバカどもが寄ってたかって潰した。朱子学では商売は卑しい行為とされていますからね。でも、内向きでは社会は発展しないのです。外へ外へと向かわないと」
「はい」
「バカの上に金欠の徳川幕府では異国人への備えなど出来ようはずがありません。そこで、天子さまの下に国中から英知ある人材が集い、異国の侵略を阻止しようという考えが尊王攘夷です」
「あの、その場合・・・」タマキはおずおずと尋ねた。「江戸にある幕府はどうなるのでしょうか?」
「邪魔なので消えてもらわねばなりません」
「ええ? そんな恐ろしいことが?」
「長く江戸に住んでいた山浦さんは抵抗を覚える考えでしょうね」西崕は苦笑した。「しかし、我ら長州人は、関ヶ原合戦以来ずっと幕府の打倒を願ってきました。その証拠に長州の家庭は大概が西枕です。この意味がわかりますか?」
「わかりません」
「枕、すなわち頭が西向きということは、足は東向き。東は江戸。つまり徳川将軍に足を向けて寝るという意味です」
「ほえ」
「それくらい徳川に対する長州人の恨みは大きいのです。関ヶ原の戦いの際、毛利は戦闘に加わらなかったから本領を安堵されるはずでした。ところが、家康は約束を破り、我らを防長二州に押し込めた。この悔しさ、怒りは、何年たっても忘れられるものではありません」
「はぁ」
「もともと徳川が大嫌いな上に、現在の幕府のていたらく。長州人なら幕府なんか無くなってしまえと思うのが当然でしょう?」
「ええ」
「ところが、この長州藩の中にも、椋梨藤太みたいな幕府に向かって尻尾を振る連中がいる。それが私は許せない。断じて許せない。奴らは長州の面汚しだ」
「なるほど」
「わたしは長州の未来を担う若者たちに、これらの考えを伝えていきたいと考えているのです。長州の、いや我が国の為に」




