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遠き清磨  作者: ふじまる
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第10章 別れ

 羽様西崕はざませいがいが萩に戻って以来、タマキはしょっちゅう西崕の家を訪ね、彼の話を聞いた、様々な話を、多方面に渡る話を。焦燥感がタマキを苛んでいた。敬愛する西崕のそばにいたい。西崕からもっとたくさん学びたい。しかし、自分が萩にいられるのは、あと僅かだということはわかっている・・・

 そんなある日、不意にキクがいなくなった。途方に暮れたタマキは西崕の家へ行き、相談した。

「出ていっちゃったんですかね?」

 そうぼやくタマキに向かって西崕は「キクさんが自分の意志で逐電したと思うのですか?」と尋ねた。

「その可能性は無きにしも非ずかと・・・」

「何故に?」

「ご存じのようにキクは前職が女郎ですから、わたしの知らない秘密があるのかもしれないと思いまして・・・」

「ずいぶん自信が無いのですね」

「はぁ・・・」

「お二人の仲は良かったんでしょう?」

「ええ、とても・・・少なくともわたしはそう思っておりました・・・」

「それなら出ていったのではないのでは?」

「自ら出ていったのでなければ、どういう事になるのでしょうか?」

「何者かに連れ去られたとか」

「まさか?」タマキは驚いて西崕の顔を見つめた。「いったい誰が? 椋梨藤太むくなしとうた一派の仕業でしょうか?」

「椋梨の犯行なら山浦さんに何か言ってくるはずです。奴らから要求がありましたか?」

「いいえ」

「それなら椋梨の線は薄いですね」西崕は口元に手を添えて考え込んだ。「これは山浦さん目当てではなく、キクさん本人を狙った犯行かもしれません。他にキクさんに執着し、誘拐までするような人物は思い当たりませんか?」

 西崕にそう問われたタマキの脳裏に一人の男の顔が浮かび上がった。

市兵衛いちべえだ、千本屋の」

「市兵衛?」

「ええ、キクが働いていた女郎屋の主人です。あの男はわたしがキクを安価で身請けしたのをひどく恨んでいました」

 早速タマキは西崕と来島光次郎きじまこうじろうの手を借り、夜中に市兵衛を自宅から拉致して郊外の空き家に監禁した。

「キクをどこにやった?」

 タマキの尋問に対し、柱に縄で縛られた市兵衛は知らぬ存ぜぬを貫いたので、光次郎が

「店の修復工事の時に使った大工道具が、おまえの家にまだ残っていたぞ」

 そう言って釘と金槌とノコギリを市兵衛の足元に置いた。

「正直に白状しないのなら、足にこの釘を打ち込むよ」

 市兵衛が恐怖のあまり悲鳴を上げると、

「あ、トンカチは嫌なの? それならノコギリでもいいのよ」

 光次郎がそう言って足の脛にノコギリの刃を当てたものだから、市兵衛は失禁しながら「わたしが誘拐させました」と白状した。

「なぜこんな真似をしたんだよ?」

 タマキが市兵衛の体を揺さぶって詰問した。

「だって、あなた方がキクを無理やり安い金で身請けしたものだから・・・それが悔しくて・・・」

「やっぱりそうか・・・それでキクは今どこにいるんだ?」

「船着き場近くのわたしの別宅に」

「見張りは何人いる?」

「二人です」

 タマキは西崕に市兵衛の監視を頼み、光次郎と二人でキクの救出に向かった。難なく見張りを倒し、タマキと光次郎は無事にキクを助け出した。怯えて泣いていたキクをタマキは

「怖かっただろう? もう大丈夫だよ、キク」

 そう言って優しく抱きしめた。

 キクを連れて空き家に戻ると、西崕がタマキと光次郎に

「君たちがいない間に聞きだしたところによると、この市兵衛さんは密かにキクさんを船に乗せ、大阪の女郎屋に売り飛ばす算段だったらしいです」

 と伝えた。

「ひでえ野郎だ。やはり足の一本くらいノコギリで切り落としてやりましょうか?」

 光次郎がそう言うと、市兵衛は「ひぇー、お助けください」と泣き声を上げた。

「しかし、今回の件は誰がどう見ても人身売買目的の営利誘拐という立派な犯罪ですよ。奉行所に届ければ、市兵衛さん、あなたは家財没収の上、牢屋にぶち込まれるのは間違いありません」

 西崕にそう言われた市兵衛が

「もう二度とこのような真似はいたしませんから、どうかお許しください」

 と柱に縛られたまま必死に頭を下げて謝ったので、西崕、タマキ、光次郎、それにキクの四人は、市兵衛から少し離れた場所へ移動し、しばらく何やら熱い議論を交わしていたが、やがて結論が出たらしく戻ってきた。

「許して欲しければ」西崕は市兵衛に告げた。「店の女郎全員の借金をチャラにしなさい」

「へ?」

「その上で、出て行きたいと言う者は自由に出て行かせ、店に残って働きたいと言う者には、働いた分に見合う給料を支払いなさい」

「そんなぁ・・・それじゃ店が潰れてしまいますがな・・・」

「嫌なら家財没収の上で入牢じゅろうですけど、それで良いのですか?」

「良くありません」

「そんなら話は決まりですね」

 夜が明けるや千本屋に乗り込んだ西崕、タマキ、光次郎、キクの四人は、店の女郎全員を一室に集め、市兵衛に借金の帳消しを発表させた。女郎たちが大喜びしたのは言うまでもない。自由を手に入れた女郎の約半分はさっそく店を出て行ったが、残りの半分は行く当てが無いという理由で店に残って引き続き働くことになった。西崕は店と女郎の取り分の割合を定め、それがちゃんと守られているか監視するため、当分のあいだ西崕、タマキ、光次郎の三人が交代で千本屋に駐在することにした。

 千本屋が女郎を解放した話はたちまち萩じゅうで評判になり、西崕、タマキ、光次郎は世直し三人衆ともて囃された。ここぞとばかりに光次郎は、得意満面の表情で若い娘に色目を使っていた。その様子を見て西崕とタマキは大笑いした。雲ひとつない青空のような楽しい日々だった。しかし、この楽しい時間は長く続かなかった。恐れていた事態が遂にきたのである。周布政之助すふまさのすけが訪ねてきて、暗い顔で告げた。

「残念です。藩から山浦さんへ正式な解雇通知が発せられました」

 光次郎が「椋梨の奴、権力を笠に着て汚い真似しやがって」と憤慨しまくったが、もはやどうしようもなく、タマキは萩から出てゆく他なかった。

「キク、俺と一緒に江戸へ行くかい?」

 タマキが念のため確認すると、キクは黙って頷いた。

「本当に良いのか? 生まれ故郷を離れるんだぞ」

「わたしが頼れるのは、だんさんしかおりませんもの」

 長州藩から解雇されたものの、タマキはすぐに萩を離れるわけにはいかなかった。注文を受けていた分の刀はちゃんと仕上げなければならなかったし、弟子たちの上達の程度を確認した上で必要な助言を与えなければならなかったし、その他こまごまとした雑用が残っていたからである。そんなこんなでタマキが萩を離れるのは六月になった。

 出発の前日、西崕は自宅にタマキとキクを招いて、ささやかな送別会を催した。政之助と光次郎も呼ばれた。

「寂しいよ、先生が萩からいなくなるのは寂しいよ」

 酔っぱらって泣きながら何度もそう言う光次郎をタマキは、

「来島さんも近い将来、江戸に剣術修行をしに来るじゃないですか」

 と慰め、政之助にも

「周布さんだって、いずれは江戸の藩邸に勤務することになるでしょうし」

 そう声をかけた。

「その通りです。これから皆さんは動き始めます」西崕が口を挟んだ。「それと共に社会も動き始めます。いえ、もう動き始めています、少しずつ、着実に」

「それはどういうことでしょうか?」

 政之助が西崕に尋ねた。

「これから我が国に、かって経験したことがない程の大変動が起きると思うのです」

「異国といくさをするという意味ですか?」

「いくさもするかもしれません。いや、たぶんするでしょうし、他にも様々な事が勃発するでしょう。いずれにせよ、周布さんや来島さんら長州の若者は、京や江戸へ出て行くことになると思います」

「その時わたしは」タマキが声を上ずらせて問いかけた。「何をなせば良いのでしょうか? おとなしく刀を造っていて良いのでしょうか?」

「今の段階では、まだ何とも言えません」

「え?」

「とりあえずわたしは萩で後進の育成に励みます。山浦さんは江戸で刀造りに精を出していてください、当面のあいだは」

 翌朝、タマキとキクは、西崕、政之助、光次郎、それと弟子たちに見送られて船で萩を後にした。

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