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遠き清磨  作者: ふじまる
11/16

第11章 故郷

 タマキとキクを乗せた船は下関海峡を通って瀬戸内海に入り、のんびり航海して大阪に到着した。大阪見物を満喫すると二人は京へ向かい、キャッキャとはしゃぎながら京の名所を見て回った、まるで現代の新婚旅行客であるかのように。数日滞在したあと京を出ると、タマキの生まれ故郷である信濃に立ち寄る為、東海道ではなく中仙道を進んだ。

「ここから俺が生まれた信濃だよ」

 信濃に入るやタマキが感極まった様子でそう言ったので、キクは労わるような暖かい眼差しを送った。

 小諸こもろに兄・山浦真雄やまうらさねおの小さな屋敷がある。赤岩村の実家を出た真雄は、刀造りの工房を兼ねたこの屋敷で、妻子および数人の弟子と共に暮らしていた。タマキとキクが訪ねていくと真雄はタマキを抱きしめて大喜びしてくれたが、再会の喜びが一段落すると、後ろで佇んでいるキクを胡散臭げに一瞥し、タマキをわきへ引っ張っていった。

「おまえ、あっちはどうすんだよ?」

 真雄が言う「あっち」とは、大石村にいるタマキの妻おようと息子・梅作うめさくのことである。梅作は十五歳になっていた。

「別にどうもしないよ」

「おまえが帰ってきたことを知らせなくて良いのか?」

「俺が帰ってきたことは内緒にしておいてくれ」

「会わないのか?」

「ああ、会わないよ。もはや他人も同然だし、いまさら変な波風を立てたくないから」

「そうか、わかった」真雄は頷いた。「それで、赤岩村にはもう寄ってきたのか? 父ちゃんと母ちゃんには会ったか?」

「いや、まだ・・・明日にでも行こうと思っているんだけど」

「あれを・・・」そう言って真雄は再びキクの方へ目を向けた。「連れて行くつもりじゃないだろうな?」

「まさか」タマキは苦笑した。「キク・・・あ、紹介が遅れたけど、あの女はキクという名前で、いまは俺の妻なんだ・・・キクはここに置いて俺ひとりで行ってくるよ」

「それが良い」

「父ちゃんと母ちゃんは元気なんだろう?」

「母ちゃんは元気だ。だけど、父ちゃんはこのところ病気がちだ」

「危ないのかい?」

「正直もう長くないかもしれない・・・」

「そうか・・・明日、朝いちばんで行ってくるよ。キクのことは頼むね」

「ああ、わかったよ」

 翌日、キクを真雄の屋敷に置いて、タマキは一人で赤岩村の実家へ向かった。実家は昔と何も変わっていなかった。家の外に母親のミサがいた。すっかり白髪になって井戸端で大根を洗っていた。

「母ちゃん」

 タマキが声をかけると、ミサはタマキの方を向いた。誰だかわからない様子だった。しかし、次の瞬間、ミサは「タマキか?」と素っ頓狂な声を上げるや、涙を流して抱きついてきた。

「タマキ、タマキ」

「ああ、そうだよ、タマキだよ。ただいま、母ちゃん」

 ミサは家の中へ向かって叫んだ。

「お父さん、お父さん、タマキが帰ってきましたよ」

 父親の信風のぶかぜは奥の部屋で寝ていたが、「タマキが?」と上体を起こした。そこへタマキが駆け寄り、「父ちゃん、ただいま」と言うと、父子は抱き合って涙を流した。

 その夜、タマキは久しぶりに父母と楽しい団欒の時を過ごした。大石村から出奔して江戸へ行き、しばらく江戸で刀鍛冶の腕を磨いていたが、やがて自分の造る刀が評判になり、その評判を聞きつけた長州藩に招聘され、この二年ほどは萩で若い弟子たちに刀の造り方を教えていた・・・という話をタマキがすると、信風とミサは驚いて目を丸くした。

「そら、まぁ、えらい冒険をしてきたのじゃなぁ・・・」

 赤岩村という田舎の狭い土地に縛り付けられた人生を送ってきた信風とミサにとっては、自分の息子が江戸、さらには遥かに遠い西国の雄藩に行っていたという事が、まるでおとぎ話のような非現実的な事柄に思えたのである。

「萩はどんなところね?」

 ミサがそう尋ねると、タマキは萩の街並みを思い浮かべて目を輝かせた。

「きれいなところだよ、海に面した、静かで、上品で、文化的な」

「萩の人たちはどうじゃった? 冷たくされなかったかい?」

「全然。萩の人たちは皆いい人ばかりで、とても親切にしてもらったよ」

「ずいぶん気に入ったみたいじゃね」

「ああ、俺は長州が好きだ、出来ればこのまま萩に永住したいと思ったくらいだもの」

「今後はどうするつもりじゃ?」信風が尋ねた。「こっちで刀鍛冶を始めるのか?」

「しばらくは兄貴の家で刀造りを手伝うつもりだけど」タマキが答えた。「その後は江戸へ戻るつもりだ。いずれにせよ、一度は江戸に戻らなければならないんだよ、お世話になった窪田清音くぼたすがね先生に長州から戻った報告をしに行かなければならないから」

「大石村には行かなくていいのかい?」

 ためらいがちにミサがそう尋ねると、タマキは少し顔をしかめた。

「兄貴にも同じ事を訊かれたけど、もうあっちの家とは縁が切れているのだから、行く必要は無いし、行くつもりも無いよ」

 強い口調でそう言うと信風とミサがおし黙ってしまったので、変な空気を一掃すべくタマキは話題を変えた。

「そんなことより、父ちゃんの体の具合はどうなんだい? 相当きついのかい?」

「もう年じゃからな」信風はため息をついた。「なかなか思うようにはいかんわ」

「医者は何と言ってるんだい?」

 タマキがそう尋ねると、ミサが信風の代わりに答えた。

「とりあえず安静にしとくしかないんじゃと」

「薬は飲んでいるのかい?」

「薬草を煎じて飲ませているけど、今のところ目立った効果は無いねぇ」

「父ちゃん、良くなってくれよな。父ちゃんが元気じゃないと俺は悲しくて仕方ないから」

 二晩泊まって、タマキは小諸に戻った。「また来る」と言い残して。真雄の屋敷に帰ると、キクが真雄の四歳になる長女と二歳の長男、さらには飼い猫とまですっかり仲良しになっており、無邪気な顔で一緒に遊んでいたものだから、タマキは「何じゃ、こりゃ」と呆れて苦笑いした。

 タマキと真雄は新たに習得した技を互いに教えながら刀造りをした。長州から持ち帰った玉鋼を見せてタマキが、

「凄いだろう、兄貴。辺境の地に行けば、まだこんなに良質の鉄が残っているんだぜ」

 自慢げにそう言うと、真雄はさも感心した様子で頷いていた。

 真雄と二人で刀を造りつつ、その合間に実家へ行ってはミサの手伝いをする日々が続いた。

「父ちゃんがかなり弱っているから、母ちゃん共々こっちに呼んであげた方が良いんじゃないの?」

 ある日、刀造りの最中にタマキがそう言うと、真雄は「実は何度も小諸で暮らそうよと誘ったんだよ」と答えた。

「え? そうだったの?」

「ああ、だけど父ちゃんが、わしはここが良い、赤岩村を離れるのは嫌だ、と言ってきかないものだから」

「父ちゃんは妙なところで頑固だもんね」

「そうなんだよ。困ったもんさ」

「確かに」

「でも、これでもし父ちゃんが亡くなったら、母ちゃんを小諸に引き取らなくてはならないだろうな、無理にでも」

「ぜひそうしてあげてよ」

「おまえはどうするつもりなんだ、タマキ?」真雄がタマキの方を向いた。「江戸へ戻るのか?」

「その予定だけど」

「おまえも小諸に残れよ」

「え?」

「ここでみんな一緒に暮らそうよ。それが良いよ」

 タマキは真雄の提案に対し、言葉を濁して明確に答えなかった。正直、迷っていた。小諸で刀鍛冶として生きるか? 幼い頃から慣れ親しんだ風景の中で、キクと所帯をもって、近所に両親と兄夫婦が住む環境で・・・もし世間一般でいう幸せを求めるのなら、それが最善の方法であるのは明らかだった。

人生には双六の《あがり》みたいなものがある。

 ある年齢、ある状態に達したら、それ以上の高望みはせず、現状を維持しながら、おとなしく、しおらしく、真面目に暮らす・・・という《あがり》。現代でいえば、多くの人にとって就職や結婚が、この《あがり》に該当するであろう。自分はこういうものだと言い聞かせ、浮ついた心を捨て、生意気な態度を改め、社会の歯車となって従順に生きる・・・それは一種の諦めかもしれないけど、その代わりに安定した生活、ささやかな幸せ、安全が保証される。もしこの生き方を拒否すれば、そいつは敵であり、不安を与える害悪であるから、社会は容赦しない。牙を剥いて襲ってくる。抹殺されても文句は言えない・・・

(でも、なぜだろう、俺の中に納得できない何かがある)

 たとえ破滅に繋がる道であっても、不幸になるのがわかっていても、もっと先へ進みたい・・・納得できるまでとことん突き詰めたい・・・その為には故郷を捨てなければならない・・・

 結局、タマキはキクを連れて江戸へ向かった。

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