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遠き清磨  作者: ふじまる
12/16

第12章 再び江戸へ

 タマキとキクが江戸に到着したのは、天保十五(1844)年の十二月である。

 真っ先にタマキは窪田清音くぼたすがねを訪ねた。清音はタマキが帰ってきたことを喜んでくれたが、幕府の役職に再任されたばかりで多忙らしく、あまり相手をしてくれなかった。タマキは少なからず落胆したものの、それでも清音が四谷に鍛冶場付きの家を世話してくれた上に、顧客も大勢呼んでくれたので、始まりから刀鍛冶の商売は大繁盛だった。

 江戸で刀造りを再開するにあたり、三十二歳のタマキは刀に彫る銘を、それまでの源正行みなもとまさゆきから源清磨みなもときよまろに改めた。

「清磨、良い名前だろう?」

 得意げにそう言うタマキに向かって、キクは「変な名前」と笑った。

「どこが変なんだよ?」

「だってみなもとってお武家さんの姓でしょ? それなのに名前が清磨って・・・これじゃお武家さんだかお公家さんだかわからないじゃないですか」

「そこが良いんだよ、今の俺にピッタリだから」

「どこがピッタリなんですか?」

「だって考えてみろよ、俺には故郷が無いし」

だんさんの故郷は赤岩村でしょ?」

「それを捨てたから、俺にはもう故郷が無いのさ」

「はぁ?」

「それに俺は身分が不確かな存在だし」

「信濃の郷士じゃないんですか?」

「けど今は町人に混ざって刀を造っている」

「だから何です?」

「つまり俺は存在が曖昧なんだよ。どこにも属していないんだよ。自由なんだよ。こんな俺には源清磨という、どっちつかずの、奇妙で、怪しくて、不明瞭で、謎めいた名前が相応しいんだ」

「ふーん、そんなものなんですか?」

「そんなものなんですよ」

 タマキの造る刀はたちまち大評判となり、四谷正宗と称されるほどだった。若い弟子も数人できた。以前から四谷で刀鍛冶をしていた固山宗次こやまむねつぐというタマキより十歳ほど年上の男が、

「後から来たくせに、先輩の俺に挨拶が無いのはけしからん」

 と怒り、果たし状を寄こす騒ぎがあったけど、すぐに和解して、その後は仲良しになった。

 このようにタマキの四谷での再出発は滑り出しから順調だったが、それに水を差す便りが兄・真雄さねおから届いた。父・信風のぶかぜが亡くなったのである。タマキは愕然とし、江戸へ戻ったことを激しく後悔した。

「もうしばらく信濃にいればよかった」

 仕事が手につかなくなったタマキは、酒をがぶがぶ飲んで悲しみを紛らわした。

「ごめんよ、父ちゃん。まさか父ちゃんがこんなに早く亡くなるとは思っていなかったんだよ。必ずもち直すと信じていたんだよ。ごめんよ・・・」

 酒を飲んでばかりでまったく仕事をしなくなったタマキに困惑した弟子たちは、キクに「おかみさん、何とかしてくださいよ」と懇願した。弟子たちにとってキクは「おかみさん」であり、元は深川で芸者をしていたが、タマキと駆け落ちして四谷に流れてきたという設定になっていた。

「旦さん、いつまでも泣いていないで、そろそろ仕事に戻ってください」弟子たちに頼まれたキクは、タマキに奮起を促した。「みんな困っているんですよ」

「俺はダメなんだ。ダメな奴なんだよぉ、キク」

「そんなのとうにわかってます」

「わかってますって何だよ?」

「何でもいいからしっかりしてください」

「俺は父ちゃんに何もしてやれなかったんだ」

「赤岩村にいても何もできなかったでしょ?」

「少なくとも最期を看取ってあげることはできたはずだ」

「でも旦さんは、そういうのも覚悟して、故郷を捨てたのではありませんか?」

「理想と現実は違うんだよ」

「そんなら赤岩村に帰りますか?」

 珍しく顔を怒らせたキクが強い口調でそう言ったので、タマキは驚いて言葉を詰まらせ、「そういうわけにはいかない」と答えた。

「でしょう?」

「うん・・・」

「じゃあ江戸に残るんですね?」

「まぁ・・・」

「ここで頑張るんですね?」

「ああ・・・」

「そういう事なら、さっさと仕事に戻ってください」

「はい・・・」

 キクに促されて腰を浮かせたタマキは、疲れた眼差しで「俺は何と戦っているんだろうな?」と呟いた。

「え?」

「いや、俺は何と戦っているんだろうな、と思ってさ」

「旦さんは何かと戦っているのですか?」

「刀を造るって、そんなに大事なことなのかな?」

「はい?」

「真っ当な人生を捨てる価値があるほど大事なことなのかな?」

「捨てる必要は無いじゃありませんか。両立させれば良い」

「それで本物の刀が出来るのか?」

 タマキがそう言うと、キクの顔がムッとした表情に変わった。

「つまりわたしが邪魔だとおっしゃりたいのですか?」

「誰もそんな事は言ってない。俺は究極を目指している、そう言いたいだけだ」

「邪魔だとおっしゃるのなら、いつでも出て行きますよ、わたしは」

「だから、そんなこと言ってないって」

「わたしにはそう聞こえましたけど」

「俺は刀にとり憑かれた可哀想な人間なんだよ」

「どこが可哀想なのか・・・いつも好き勝手にやってるくせに」

 それ以上キクを怒らせないようタマキは黙って鍛冶場へ向かったが、怪しい物思いは続いていた。

 確かにキクの言う通り両立させれば良いのだ、刀造りと真っ当な人生を。実際みんなそうしてるじゃないか。刀なんてたいしたものじゃない。以前、西崕せいがいさんが、俺の造る刀は芸術品で、俺の化身だと言ってたけど、そんな大層な代物じゃない。所詮はただの道具だ。深く考えないで、昼間は普通に刀を造り、夜は家族と楽しく過ごせばいい。それが人間の営みというものだ。なぜ俺にはそれが出来ないのか? 何が俺を妨げるのか?・・・

 おようは重かった。何だかわからないけど重かった。梅作も重かった。まだ小さな赤ん坊だったのに。キクは軽い。なぜだか軽い。元が女郎だったせいだろうか? そんな事が関係あるのか? キクと一緒にいても苦にならない。それでも最近は重くなりかかっているけど・・・キクも重くなりかかっている・・・おようの重さは異常だった。俺は圧し潰されそうだった。そこに梅作の重さが加わって、いよいよ耐え難くなった。このままでは俺の存在意義である刀が造れなくなる・・・

 存在意義? 刀は俺の存在意義なのか? 俺から刀を取り上げたら、後には何も残らないのか?

 俺は逃げ出した、おようから、梅作から、大石村から、家庭から・・・家庭の空気は澱んでいる。家庭は俺を窒息させる。きれいな空気が無いところでは俺は生きられない。刀を造れない。やはり西崕さんの言う通りなのか?・・・ありきたりの刀を造るつもりはない。俺は刀に魂を込める。それには空気が必要だ、軽くて新鮮で自由な空気が。家庭の空気は俺を動けなくする。魂の活動を止める。いきいきした心を無くす。重い。重すぎる。俺は軽やかでいたい。そうじゃないと刀に魂を注入できない。生きた刀を造れない・・・

 助けてくれ。助けてくれ。俺は刀にとり憑かれた可哀想な人間だ。もっと器用に生きられないのか? これじゃ自分で自分の首を絞めているようなものじゃないか。もっと楽に生きられないのか? そうすれば親も家族も親戚も、そして自分も幸せになれるのに・・・でも、楽に生きられないんだろうな、俺は・・・自分が無理してるのはわかっている。損で不合理なこの生き方しか俺にはできない。どうしてこうなっちゃったんだろう? 俺はずっと旅をしてるみたいだ、終わりの無い旅を・・・落ちつく先は無い。旅が続くだけ。死ぬまで続くだけ。ただそれだけ・・・

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