第4章 萩
タマキが萩に到着したのは、天保十三年(1842年)の八月である。
(清廉な感じのする町だな)
松本川と橋本川に挟まれた中州に広がる城下町は、こじんまりとしているものの、タマキが思ったように清らかな精神性を感じさせる雰囲気があった。青い海も菊ヶ浜の松林も美しかった。ただ、お城が海に突き出た指月山の麓に築かれているのだけが、タマキの目にはちょっと奇異に思えた。
ちなみにタマキが萩の地を踏んだ時、後に活躍することになる萩出身の英傑たちはどういう状態だったかというと、吉田松陰が十二歳、桂小五郎が九歳、高杉晋作が三歳で、伊藤博文に至っては生まれたばかりの赤子にすぎなかった。
何度も行き交う人に道案内を乞いながら、どうにかこうにかタマキが羽様西崕の家にたどり着くと、中から瀟洒な女性が現れた。タマキは名乗った。
「わたしは江戸から参りました山浦タマキと申します。羽様先生はご在宅でしょうか?」
すると女性の背後から「おお、君が山浦さんか」という明るい大きな声が聞こえ、総髪で中肉中背の男が笑顔で現れた。
「わたしが西崕です。ご家老からの書状で君のことはあらかた聞いています。よく萩へ来てくださった。歓迎しますよ」
西崕の陽気で開けっぴろげな人柄に戸惑ったタマキは、ドギマギしながら「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「あ、そしてこれは」西崕が横の女性に顔を向け、「わたしの家内で、小夜と申します」そう紹介すると、小夜は「今後ともご昵懇に願います」と挨拶した。タマキは何と答えて良いかわからず、無言で頭をぺこりと下げた。
「君の工房はこの近くに用意してある。職人も集めてあるから、さっそく案内しよう」
西崕はタマキを連れて歩きだしたが、すぐに「おっと、しまった、忘れていた」と言うと、後ろを振り向いて小夜に声をかけた。
「周布さんに山浦さんが到着したと伝えてくれ」
「誰ですか、その周布って人は?」
歩きながらタマキが尋ねると、西崕は「藩の役人です」と答え、そのあと「ところで、山浦さんはおいくつなんですか?」と訊いた。
「文化十年生まれの二十九歳です」
「ということは、わたしの二つ下か」
「あ、そうなんですか?」
「つまり、わたしたちは兄弟みたいなものですね」
「恐縮です」
「それにしても君は背が高いなぁ」
「はぁ」
「だけど痩せている。痩せすぎだ。もう少し肉をつけなくちゃね」
「ええ」
「萩にいる間にうまいものをたくさん食って肉をつけてくださいよ」
「はい、そうします」
そうこうしているうちに目的地に着いた。窪田清音の屋敷にあったものより、もっと大きくて新しい鍛冶場小屋である。中からは何やら作業をしている物音が聞こえてくる。
「君の弟子になる職人たちに、江戸から先生が来たらすぐ仕事に取り掛かれるよう準備しておけ、と指示しておいたのです」
そう言ってタマキに微笑みかけた西崕が小屋の中に入ると、タマキもすぐ後に続いた。小屋の中では作業用の粗末な着物を着た五人の少年が炭を並べたり、火をおこしたり、水を運んだりしている。
「はい、みんな、いったん作業を止めてくれ」
この言葉で五人は一斉に西崕の方を向き、作業を止めた。
「君たちに刀造りを指導してくださる先生が遂に到着したぞ。山浦タマキ先生だ。ご挨拶しなさい」
西崕がタマキを紹介すると五人は立ち上がり、「よろしくお願いします」と頭を下げた。西崕は得意げな笑顔をタマキに向けた。
「萩にいる鍛冶屋の中から、筋が良くて、伸びしろがあって、将来が期待できそうな十四、五歳の男子を五人選抜しときました。向かって左から新吉、弥助、角兵衛、富作、勘太です。面倒をみてやってください」
「はぁ」
「今後、山浦さんの噂を聞きつけ自分も弟子になりたいと希望する者がいたら、その者も加えてやるつもりですから、もしかしたら人数が増えるかもしれませんけど、その時はよろしくお願いしますね」
「ええ」
「道具はぜんぶ揃えてありますけど、他に必要なものがあったら遠慮なく申し出てくさい。藩に用意させますから」
「わかりました」
「ここまでで何か質問がありますか?」
「玉鋼はどこにあります?」
「ちゃんと用意してありますよ」西崕は小屋の奥に積んである木箱を指さした。「藩の蔵からこの五人と一緒に運んでおきました。重くて大変だったんですよ。全部じゃないけど、当面はこのくらいあれば間に合うでしょう」
タマキは木箱に近づき、中から玉鋼を取り出すと、ひとつひとつ手に取っては愛おしそうに眺め始めた。
「そんなに良いですか?」
「はい、これほど質の良い玉鋼は見たことがありません」
玉鋼にうっとりと見惚れてしまって動かないタマキに呆れた西崕は、
「まだ他にも見せるものがありますから」
と無理やり箱から引き剝がし、外へ連れ出した。小屋の隣には小さな家が建っている。
「ここが君の住む家です。さっきの五人がきれいに掃除して、寝具やら家具やら生活必需品を運び入れているはずなのですけど・・・」
そう言いながら西崕が家の中に入ろうとした時、後ろから「西崕さん」と呼ぶ声が聞こえた。振り向くと精悍な顔つきをした青年が息を切らしながら駆け寄ってきた。
「ああ、周布さん、ご苦労さまです」
この青年が、村田清風亡き後、桂小五郎や高杉晋作ら藩内のいわゆる正義派を率いて俗論派と争い、長州藩を倒幕の方向へ舵を切らせることになる周布政之助である。この時はまだ十九歳の若造にすぎなかった。
「周布さんはね、ご家老にたいへん目をかけられている、将来は藩の重役まちがいなしと評判の切れ者なんですよ」
西崕からそう紹介されたタマキは「山浦です。よろしくお願いします」と政之助に頭を下げた。
「わざわざ江戸からご苦労さまです」
「お若いのにすごいですね、村田さまから嘱望されているなんて」
タマキにそう言われた政之助は「いやぁ、わたしなんぞはまだまだですよ」と照れたが、すぐに「そんな事より」と言って懐から小さな包みを取り出した。
「先生には藩から毎月お手当が出ますが、これは当座の生活資金です。江戸にいるご家老の指示で城の勘定方から預かって参りました」
「そうですか。では、遠慮なく頂戴いたします」
「このように」西崕が口を挟んだ。「周布さんは君と藩との間を取り持つ連絡係をしてくれることになっています」
「お世話になります」
「どうですか、先生、この工房は? 気に入っていただけましたか?」
政之助が鍛冶場小屋に目をやりながらそう尋ねると、タマキは「たいへん気に入りました」と答えた。
「西崕さんとわたしで先生に満足してもらえるようあれこれ考えてご用意したんですよ」
「お手間をかけました」
「先生に気に入ってもらえてうれしいです」
「その先生というのはちょっと・・・」タマキの顔が困惑した表情に変わった。「わたしは周布さんに刀造りを教えるわけではありませんから、山浦と呼んでいただけませんか」
「でも、刀造りの先生であることは間違いないんだし・・・」
「良いではありませんか」西崕が再び口を挟んだ。「堅苦しいのは良くありませんから、お互いを西崕さん、山浦さん、周布さんと呼び合いましょうよ」
「わかりました、そうします」政之助は頷いた。「では早速ですが、山浦さんはこっちの方はお好きですか?」
そう言って酒をクイッと飲む仕草をした政之助に、タマキは「大好物です」と答えた。
「実はご家老から、さっきの分とはまた別に、たんまり銭を渡されておりまして、山浦さんを接待するよう仰せつかっているのですよ。要するに歓迎会ですね」
「はぁ」
「今日は弟子の小僧たちを帰して、これから三人でパーッと飲みに行きましょうよ。ね、西崕さん、いいでしょ?」
「わたしは構いませんよ」
「いよっしゃー、今夜は山浦さんに萩の銘酒と地元のうまい魚をたっぷり堪能してもらうぞ」
さっそく政之助は馴染みの料亭にタマキと西崕を連れてゆき、芸者を呼んでどんちゃん騒ぎを始めた。根っからの酒好きらしかった。酒好きという点では引けを取らないタマキも浴びるように飲んだ。酩酊したタマキと政之助は芸者と一緒にふらふら踊っては飲み、また踊り、また飲むを繰り返した。そんな二人を尻目に西崕はひとり静かに杯を傾けていた。タマキと政之助がべろんべろんに酔いつぶれて意識を失ったところで楽しい酒宴はお開きとなり、タマキの萩での第一日目が終わった。




