第15章 黒船来航
タマキが四十歳になった嘉永六(1853)年七月、ペリー提督率いる四隻のアメリカ艦隊、いわゆる黒船が浦賀沖に来航し、江戸じゅうが大騒ぎになった。人々は通りに出て、江戸湾の方向に目をやりながら、
「こっちに来るだろうか?」
「江戸はどうなるんだろう?」
と口々に不安を吐露していた。
そんな中、酒の飲みすぎで体調が悪いのにも関わらず、タマキは「遂に来た」と興奮していた。何年も前から予感し、待っていた動乱の時代が、いま始まるのである。社会の大変革が起きる。古い世の中は消え、新しい社会が出現する・・・居ても立ってもいられなくなったタマキは鍛冶仕事を放っぽりだし、表に飛び出した。そして痩せた体で群衆をかき分けながら海の方へ歩いて行った。
品川にたどり着いた時、タマキは人ごみの中で知っている顔を見つけた。堂々たる髭を蓄えた、日本人らしからぬ風貌の、ひときわ目立つ筋骨隆々の偉丈夫。佐久間象山である。このとき四十二歳。
「佐久間さん」
タマキに声を掛けられた象山は怪訝な表情で振り向き、「誰だ、おまえは?」と訊いた。
「お忘れですか? 十年ほど前、窪田清音先生のお屋敷で一度ご挨拶させて頂いた刀鍛冶の山浦です」
「あ、山浦」
象山は思い出したらしく、渋面が笑顔に変わった。
「久しぶりだな」
「はい、お久しぶりです」
「噂に聞いているぞ。今や君は江戸で指折りの刀匠だそうじゃないか。たいしたものだ」
「恐れ入ります」
「刀に刻む銘を変えたよな。たしか・・・」
「源清麿です」
「そうそう清麿。良い銘だ」
「ありがとうございます」タマキは頭を下げた。「それにしても、すごい騒ぎですね」
「ああ」象山は険しい目つきで周囲の喧騒を見渡した。「遂に異国が真正面から襲来してきたからな」
「いくさになるのでしょうか?」
「それは我が国の出方次第だな」
「十年前、佐久間さんが予言していた動乱の時代が、いよいよ始まるのですね」
「そうだ、これから時代の転換期が始まる。何が起こるか俺にも予測できない」
「佐久間さんにもわかりませんか?」
「わからんねえ、どんな混乱がやって来るのか」
「でも、こんなこと言うのは不謹慎なのはわかっていますけど、何だかワクワクしますね」
「まあね」象山は不敵に笑った。「体の血が沸き立つよな」
「ところで、佐久間さんは今からどこかへ行かれるのですか?」
「おうよ、敵情視察だ」
「敵情視察?」
「浦賀に敵の蒸気船を見に行くのさ」
「蒸気船って何ですか?」
「黒船のことだよ。黒船は帆に風を受けなくても蒸気の力で自走するのだ」
「よくわかりませんけど、とにかく凄そうですね」
「凄いんだよ、奴らの文明は我が国よりずっと先に進んでいる。俺は書物で蒸気船を知っているが、実物を見たことがないので、うちの書生を連れて見物に行くところなのだ」
「書生?」
よくよく見れば、象山の隣にあばた顔の痩せた青年が立っている。
「こちらが佐久間さんところの書生さんですか?」
そう尋ねると、象山が答える前に青年が大きな声で「吉田寅次郎と申します」と言ってお辞儀をしたので、タマキは少々たじろいだ。これが後の吉田松陰である。このとき二十三歳。
「吉田くんは長州の人間だ」
象山がそう紹介したものだから、タマキは嬉しくなって「え、長州?」と笑顔になった。
「実はわたしは二年ほど萩に住んでいたことがあるんですよ、刀造りを教える為に」
「あ、そうなんですか」
意外な顔をする寅次郎に、タマキは尋ねた。
「萩では羽様西崕さんからとても親切にしてもらったのですが、吉田さんは西崕さんをご存じですか?」
「お会いしたことはありませんけど、噂は聞いています。絵師の先生ですよね?」
「本業は絵師ですけど、最先端の思想家でもあります」
「そうなんですか。こんど萩に帰ったら、ぜひ訪ねてみます」
「それが良いですよ。西崕さんの話は勉強になりますから」
と、ここでタマキは象山の方を向き、「わたしも一緒に連れて行ってください」と頼んだ。
「え、君も浦賀へ行くの?」
「はい、わたしも黒船を見てみたくなりましたものですから」
「俺は構わんけど」象山は過度の飲酒で瘦せ細ったタマキの体を疑わしげな目つきでじろじろと眺めた。「ついて来れるかい? 浦賀はけっこう遠いよ」
「大丈夫です」
三人は浦賀へ向かって出発した。道中、タマキは寅次郎と萩の思い出話で大いに盛り上がった。それでタマキにわかったのは、この吉田寅次郎という青年が非常に純真でまっすぐした心根の人間だということだった。寅次郎と話をしていると、とても心地よい。そんな気持ちになったのは羽様西崕以外の人間では初めてだった。やはり俺は長州人と相性が良いのかな? タマキはしばし感慨に耽った。
最初は順調だったが、途中からタマキがバテ始め、とうとう象山と寅次郎について行けなくなった。こういう時、象山は容赦ない。
「先に行くぞ」
そう言い捨てて寅次郎とすたすた先へ行ってしまった。
幸い近くに馬子がいたので、タマキはそれを雇って馬に乗せてもらい、何とか二人に追いついた。
休憩を挟みながら、たっぷり十五時間ばかりかけて、ようやく三人は浦賀に到着した。すでに沿岸は黒船をひと目見ようと押しかけた群衆でぎゅうぎゅう詰めだった。象山は寅次郎を連れて高台に上がり、黒船を遠望した。タマキもぜいぜい息を切らしながら二人に続いて高台に上がった。
黒船がいた。それは巨大な鯨のようにのっそりと沖合に浮かんでいた。その異形な姿と迫力にタマキは圧倒された。
「四隻のうち二隻に大きな煙突が付いていて煙がもくもく出ているだろう? あれが蒸気船だ」象山が寅次郎とタマキに向かって得意げに蒸気船の仕組みを説明し始めた。「あの煙突の下には大きな風呂、つまり石川五右衛門が釜茹での刑に処された時のような巨大な風呂釜があり、薪を燃やしてお湯をぐつぐつ沸騰させているのだ」
「乗組員が入浴するためですか?」
タマキがそう訊くと、イラついた象山が「違うよ」と声を荒げた。
「風呂というのは君たちにわかりやすいように言った例えだ。本当は風呂釜じゃなくて上部が閉じているんだ。密閉してあるんだよ」
「密閉? 何ゆえに?」
「沸騰したお湯からは湯気がもうもうと出るだろう? つまり外への力が働いているわけだ。密閉した風呂釜を熱し続けると、外へ向かう蒸気で内部がぱんぱんになり、圧力が増して、やがて破裂する」
「それは災難ですね」
「だから、そうならないよう密閉した風呂釜の中に蒸気の出口を作り、細い管に通してやるのさ。そうすると細く集まった蒸気がもの凄い勢いでピューッと外へ吹き出る」
「ピューッとですか?」
「ピューでもキューでもいいんだよ、そんなのは。とにかく勢いよく吹き出た蒸気を歯車に当てる。これは物凄い力だ。その力で歯車が回る。そうしたら、ほら船体の側面に大きな輪っかが付いているだろう、蒸気が当たって回っている歯車の同軸にあるあの輪っかが回転し、水をどんどん搔いて船を前進させるのだ。わかったか?」
「何となく」
タマキがそう答えると、象山は「なぜわからないんだよ」と地団駄踏んだ。
「寅次郎はわかるよな?」
象山が寅次郎の方を向いてそう問うと、寅次郎もまた「何となく」と答えたものだから、
「おまえらはバカか。なぜ俺さまの懇切丁寧で明快で理路整然とした解説が理解できないんだよ」
と、象山は天を仰いだ。
「蒸気船の仕組みは何となくしかわかりませんでしたけど」寅次郎が笑顔で言った。「彼らの文明の凄さは充分にわかりましたよ」
「そうだろう?」象山は目を輝かせた。「奴らは凄いんだよ」
「悔しいけど、我が国は遅れています。たとえ彼らが敵であっても、まずは謙虚に彼らの文明を学ぶ必要があると思います」
「うん、うん」
「わたしは知りたいです、彼らの文明の源になっているものを」
「そうだ。そこが大切だ」
象山と寅次郎のやりとりを聞いていたタマキは、この吉田寅次郎という青年が、おとなしそうな外見とは裏腹に、内部にとてつもない情熱を秘めているのを、はっきりした根拠はわからないけど、何となく感じた。
(やはり長州人は良いな)
タマキは頭の中で西崕の顔を思い浮かべた。




