第14章 別離
長州藩が持っていたような極上の玉鋼は、江戸ではそうたやすく手に入らない。しかしながら、作刀の腕が上がったので、中程度の品質の玉鋼からでも、極上の玉鋼で造るのと同水準の刀を、タマキは造れるようになっていた。問題はその先である。もう一つ上の段階にあがれない。頭の中には理想の刀像が浮かんでいるのだが、どうしてもそこへ到達できない。何度やっても現状止まり。タマキは苛立ち、弟子たちに八つ当たりするようになった。酒量も増えた。もともと大酒飲みだったが、さらにそれがひどくなり、酒の毒で手が震えるようになった。体もげっそり痩せた。そうなると、ますます理想の刀が造れなくなる。タマキは思い通りに動かない自分の体を呪い、さらに荒れ狂った。
キクは酒を控えるよう改めて強く迫ったが、タマキは聞く耳を持たないばかりか、「余計な口出しするな」と逆切れする有様だった。このところタマキは、キクに対して以前のような優しさを示すことが無くなり、あたかも女中であるかのようにぞんざいに扱っている。
「余計な口出し?」今度はキクが気色ばんだ。「それはどういう意味ですか、旦さん?」
「うるさいんだよ、おまえは」
「うるさいって・・・いつも旦さんの身の回りの世話をしているのは誰ですか?」
「おまえだよ」
「文句も言わずに甲斐甲斐しく世話をしているのは誰ですか?」
「だからキクだってば」
「わたしは旦さんの女房じゃないんですか?」
「女房だろうが」
「女房だったら亭主の体を心配して口うるさく注意するのは当然じゃありませんか?」
「それはそうだけど、このところ重たいんだよ、おまえは」
「重たい?」
「ああ、重たいんだ、おまえは」
「そうですか。わかりました」ここでキクは一呼吸置いた。「少し前から旦さんは、わたしを邪魔に思っていますよね?」
「そんなことないよ」
「いいえ、あります。旦さんはわたしのことを何もわからない馬鹿だと思っているのでしょうけど」
「そんなこと思ってないって」
「わたしだってたくさん考えているんですよ。色んな事がわかっているんですよ」
「そりゃそうだろうよ」
「わたしが邪魔なら正直にそうおっしゃってください。出て行きますから」
「そんなこと言うつもりはないよ」
「結局、旦さんは普通の結婚ができない人なのですね」
「どういう意味だよ?」
「ご自分でもわかっているのでしょう? 自覚があるのでしょう? 結婚に向かないということが」
「わかんないよ」
「さっきわたしのことを重たいって言いましたけど、大石村の正妻さんのところからも、そう言って逃げ出したのではありませんか?」
「違う」
「わたしが女郎のままだったら良かったのですか? 女房になったから邪魔になったのですか?」
「なに言ってんだよ?」
「そもそも家庭というのは夫婦ふたりで作り上げるものですよね?」
「そうだよ」
「でも、旦さんにはひとりの世界しかない。ふたりの世界には住めない。そうなんでしょ?」
「勝手に決めつけないでくれ」
「しかし、これが事実です。わたしがいると良い刀が造れないのですか? 感性が鈍るのですか?」
この質問にタマキが答えられずにいると、キクは決心がついた顔で「わたしは長州に帰ります」と言った。
「え?」
「萩に帰って待ってます、旦さんがふたりの世界に住めるようになる日を」
「そんな・・・」
「ふたりの世界に住めるようになったら来てください、萩へ。そうしたら夫婦生活を再開しましょう」
結局、キクは長州へ戻ることになった。タマキはありったけの銭を全部キクに渡した。その銭を見てキクは「これだけあれば小さなお店が持てるわね」と疲れた笑みを浮かべた。
「萩で何かのお店をやりながら待ってます」
旅装束に身を包んだキクはそう言うと、さばさばした表情で去っていった。
がっくり落ち込んだのはタマキである。心に大きな穴があいた気がした。もともとタマキは、女はそばにいない方が良いと思うたちだった。いつも一緒にいられると鬱陶しい。こちらが欲しくなった時だけいれば良い。それゆえ商売女で充分だ・・・内心そう思っていた。ところが、キクを失ったら心にどんと強い衝撃が来た。キクが俺にとってこれほど大きな存在だったとは・・・タマキは道に迷った子供のようにおろおろした。
「先生、おかみさんが愛想つかして出ていったんですって?」
しょげているタマキに小栗又一がそう声をかけた。タマキは無言のまま恨めしそうな顔をして頷いた。
「若輩者のわたしが口を挟むのがおこがましいのは重々承知の上であえて言わせてもらいますけど、ぜんぶ先生が悪い」
「うん」
「先生はおかみさんをないがしろにしすぎました」
「確かに」
「毎日心置きなく仕事ができるのは、おかみさんの内助の功があったからなのですよ」
「わかってます」
「それなのに先生は自分ひとりで何でもできているような立ち振る舞い。おかみさんはまるで使用人のよう。傍目から見ても、おかみさんがお気の毒だと思っておりました」
「面目ない」
「先生はおかみさんの事を軽く考えていたのでしょう? 何をしても自分のそばから離れるはずがないと高を括っていたのでしょう?」
「それは否定できないな」
「しかしながら、当然ですが、おかみさんも人間ですからね。心の無い人形じゃありませんからね。感情を持った人間ですからね。我慢の限界が来ますわね」
「そうだね」
「おかみさんは長州に帰ったんですよね?」
「ああ」
「先生も今すぐ長州へ行った方が良いですよ、おかみさんを追って」
「そうかね?」
「そうですよ。それが唯一の幸せになる道です」
「実は俺もそう思う」
「そうでしょう? そう思うのなら、そうしたら良いじゃありませんか。迷う必要は無い」
「でも、俺はともかく、キクは幸せになるのかな、それで」
「え?」又一は驚いて訊いた。「どういう意味ですか?」
「いや、このままの方が良いのかもと思ってさ」
「つまり先生は、別れた方がおかみさんは幸せになれる、そうおっしゃりたいのですか?」
「うん、そう思えて・・・どうなんだろうね?」
「ずいぶん自信が無いんですね」
「もうわかんないんだよ、俺は。何が正解なのか」
「確かにどちらが良いか」又一は腕を組んで考え込んだ。「野暮で無神経で思いやりの無い変人の先生と復縁するのと、このまま別れて別の真っ当な人と新たな人生を歩むのでは」
「おい、コラ」
「よくよく考えたら、このまま別れた方が、おかみさんの為かもしれませんね」
「そうだろう? そのうち俺はキクに手紙を書くつもりなんだ。無理に俺を待つ必要は無い。萩で良い男がいたら、そいつと夫婦になって幸せに暮らせ、とね」
「あ、それは良い考えですね」
「これまでキクには自分の人生が無かったからね。他人の為の人生しかなかったんだ、あいつには」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ」
「でも、今は俺が渡した大金・・・とまでは言えないけど、まあまあの額の銭を持っているし、晴れて自分が望む人生を選べるだろう」
「優しいんですね、先生は」
「キクには幸せになってもらいたいからね。俺にできるせめてもの恩返しだ」
「それで先生は寂しくないんですか?」
「俺がか?」タマキは声を上ずらせて又一を見返した。「俺は寂しくなんかないよ。いや、違うな。もともと俺は寂しい世界の住民なんだ。だから心も体も慣れているのさ、寂しさに」
「ま、先生はそういう人でしょうね」
「そういう人ってどういう人だよ?」
「良く言えば孤高の人」
「悪く言えば?」
「哀れな仲間はずれ。独りよがりの芸術家。せんずりかきの与太者」




