◾️九月一日月曜日Ⅱ
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「……先生。藤島先生」
「……山吹先生」
名前を呼ばれてうっすらと目を開けると、自分がベッドの上に寝かせられているのだと気づく。真上に山吹先生の顔があって、慌てて上体を起こした。
「だ、大丈夫ですか? あまり急に激しい動きをするのはよくないですよ」
「すみません……。私、どうしてここに」
最初は病院かと思ったが、どうやら校内の保健室のようだ。養護教諭の佐々木先生は席を外しているのか、保健室の中は二人きりだった。
「教室で倒れていたんですよ。僕が通りかかったとき、赤井さんが泣きそうな顔で先生の名前を呼んでいました。慌てて駆け寄って、藤島先生を保健室まで連れてきました。救急車も考えたんですけれど、疲労のような感じだったので、休めば目を覚ますだろうって佐々木先生が」
彼が、私を保健室に運んでくれたときのことを説明してくれる。赤井さんというのはななみちゃんのことだ。山吹先生に運ばれたという事実は衝撃的で恥ずかしくもあり、視線が泳ぐのを感じた。でもそれ以上に、感謝の気持ちのほうがずっと大きかった。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしてすみません」
「いや、僕は別に。大事に至らなくてよかったです。それにしても何があったんですか? 赤井さんに聞いても、『気づいたら藤島先生が目の前で倒れていた。なんでそうなったのか分からない。覚えてない』って言うんです。子どもですからね。目の前で起きた出来事がショックで記憶が飛んでしまうこともあるかなって思って。藤島先生に直接聞くしかないと思いました」
「覚えてない……。ななみちゃんが本当にそう言ったんですか?」
「はい、そうです。どうかしましたか?」
ななみちゃんに、あの時の記憶がないのか。
やっぱり彼女は何かにとり憑かれていた……?
「いえ……。あの、私……」
言葉を紡ぎかけて、はっと止める。
私は一体このひとに何を言おうとしていたんだろう。ななみちゃんが声をかけてきて、お腹の前に誰かがいると言ってきた、なんて話したところできっと信じてもらえないだろう。ななみちゃんには何も記憶が残っていないのだ。私が作り話をしているようにしか聞こえない。
山吹先生の顔を見上げるようにしてじっと見つめる。柔和な表情をした彼は、ふう、と息を吐いて「藤島さん」と私を“さん付け”で呼んだ。
「何か、抱えていることがあるんじゃないですか? 仕事のことでしょうか。やっぱり酒井先生とのこと? それとももっと別の悩み? 僕でよければ、話してみませんか。ちょっとは楽になると思いますよ」
四つも年上なのに、丁寧な口調で話し続ける彼は、私という人間そのものを尊重してくれているように感じた。それは、彼が立山小学校に赴任してきてからずっとだ。隣のクラスの担任をしているから、というのもあるかもしれないけれど、私は単純にこのひとのその物腰柔らかな態度が好きだった。
山吹先生になら、すべてを話しても大丈夫かもしれない。
自然とそんな考えが浮かんでくる。まだ佐々木先生は戻ってこないようだ。山吹先生も、今すぐ佐々木先生を呼ぼうという気はないらしい。今ここにいるのは私と山吹先生だけ。ふたりきの空間で、胸がドキドキと高鳴り始める。このひとに恋をしているわけではないのに。第一、既婚者だし。
山吹先生の左手の薬指にはまっている、まだ新しそうな指輪の輝きを見つめながら、口を開いた。
「信じてもらえないかもしれないのですが」
私は、自分がYouTubeで心霊系の動画を配信していること、そこに寄せられたお便りに書かれた清葉病院について調べていること、清葉病院で経験した怪異、石川さんから聞いた話、母の流産のこと、今も誰かの視線を感じること、それから昼休みにななみちゃんから言われた不可解な言葉を洗いざらい話した。自分が妊娠しているかもしれないということはさすがに伏せておく。
「そんなことがあったんですね」
彼は私の言葉を疑うでもなく、かといってすぐに信じるというわけでもなく、深く考え込む素ぶりを見せる。じっと顎に手を当てて私の話をなんとか現実的に解釈しようと試みている様子だった。
「すみません。僕はそういうたぐいのものは見えない体質なので、藤島さんが経験している怪異について、できるかぎり想像してみたのですが、あまりイメージが湧かず……」
「いえ、こんな話を突然聞かされていきなり信じろというほうが酷な話です。それに、私ももともと霊感があるほうではないんです」
「そうなんですか?」
「ええ。でも霊感のない私でさえあの病院には禍々しい何かが潜んでいると感じられました。実際幽霊の姿も目にしましたし……。まあ、それについてはもう怪異としか言いようがないので、検証を重ねるしかないかと思っているのですが。それよりも私が気になっているのは母のことで」
「お母さん、藤島陽子さんって言ってましたよね。その病院で助産師をしてたって」
「はい。母が助産師をしていたなんて知らなくて。それに、母が流産していたことも。流産をした子どもの出産予定日と私の誕生日が重なっていると知って、混乱するばかりで。それに母の同僚だった石川さんは何かを隠しているような気がするし。私は本当は……お母さんの子じゃ……ないのかな」
ぽつりと口からこぼれ落ちた言葉が、今の自分が不安に思っている本音なのだと今更気がつく。
私は、母の――藤島陽子の子どもではないのかもしれない。
そう思うのは、やっぱりあのカルテが本物らしく、母が流産した年月がどうにも腑に落ちないからだ。石川さんが嘘をついている可能性もあるけれど、嘘のカルテを書くなんてどうかしているし。見たところ、石川さんは真面目な女性のように思われた。実際会ったのは一度だけで、彼女の本質的な部分は何も知らないのだけれど……。
彼女が何かを隠しているというのはもはや確信している。
その隠している内容が、母の流産にかかわっているかもしれない、というところも見当がつく。が、実際のところどうなのか、昨日の今日で石川さんから連絡はないし、彼女を通してでしか知りようがない。
「まだそう結論づけるのは早いと思いますよ。藤島さん。自分の出生について、お母さんに聞いてみるのはどうです? あるいはDNA鑑定をするとか。DNA鑑定にしても、お母さんの協力が必要だと思いますよ」
「そうですよね……。そう、分かってるんです。でも」
山吹先生の言うことはもっともだ。
母に聞くのがいちばん早いし、確実。
私自身、真っ先に思い浮かんだ方法だ。
だけど……と、母の顔を思い浮かべながら逡巡する。
「母はいま……施設にいるんです」
「施設? 老人ホームか何かですか?」
「介護施設です。母は認知症なんです。本当のことを聞き出そうとしても、覚えていないか——あるいは、話してくれないと思います」




