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【52】私たちは見つめ合う。

……あれ。先ほどまでと、少し様子が違う? 勿論、正気付いたりはしない。でも、なんだか。息が異様に浅く、暴れ続ける身体は捩じれたまま緊張状態が抜けない。顔色は真っ青だ。絶叫の中に、啜り泣きのような引き攣りが混じる。あ、とわかる。かつて意識のあるフェリックスさまを後ろから刺し殺したとき。あのときのパニックに似ている。


ふとフェリックスさまとの会話を思い出す。つい三日前のこと。正面から彼を殺したときのこと。そうだ。言っていた。顔を見ていてもいいかと。私の声で気が楽になると。私たちはあの日、目を合わせていた。フェリックスさまは殺される直前も落ち着いていて、少し微笑んでくれたっけ。あのときと今は状況が違う。相手は私を認識していないだろう。でも、約束したのだ。守ってあげたい。


なりふり構わない殺戮人格。それはつまり、人に危害を加えることを何よりも優先するとも言える。だから、私の考えていることはきっと成功する。今からやることは絶対痛い。嫌だと心が叫ぶ。生き物の本能だ。同時にこうも思う。それでも、目の前で苦しむ獲物にトドメを刺してあげたい。……いや。フェリックスさまを助けてあげたい。


私はフェリックスさまの正面に回る。ナイフを右手に持ち替えた。左腕を、フェリックスさまの前に差し出した。興奮した獲物の前に無防備に腕を出せばどうなるか。結果は火を見るより明らか。全くの力加減なく、私の腕は食いつかれる。犬歯が一気に皮膚を貫通する。ぐぐ、と顎が私の腕を食いちぎろうと力をかけ続ける。痛い痛い、痛い!!! 


瞬きした瞬間、涙が目から零れる。でもおかげで視界がすっきりした。幸い、私の身体は怯まなかった。集中する。今まさに食いちぎられそうな腕にマナを少し込める。ぐいっと腕を引き上げた。マナで肉体強化していたため、何とか持ち上がる。噛みついているフェリックスさまの顔も上を向く。私とフェリックスさまの目線が同じ位置にくる。


「フェリックスさま、大丈夫です。今、殺しますから」


返されたのは唸り声だった。ナイフをもう一度、胸当ての隙間から入れる。刺し込むのに手間取らない。目の前の身体の動きが止まっているのだ。私の腕を噛む方に意識がいっているのだろう。今度は引っ掛かりもなく切っ先が進む。ぐう、と心臓にまで深く入れた手ごたえ。


「さっきはごめんなさい。約束忘れちゃって。顔を見ていたいって、言っていたのに」


「ぐ、うぅ」


「再発の原因、やっとわかりましたよ。こんなことはこれで最後です」


さっさと殺せばいい。なのに、私は平然と喋っていた。頭がおかしくなったのかもしれない。噛みつかれている腕の指先が、さっきからじーんと痺れている。神経やられたかな。でも焦りはない。


フェリックスさまを見る。相変わらずの様子だろうと思った。噛みつく力は全然弱くならないから。けれど、目がこちらを見ていた。藻掻くことを止めて、私の目をじっと見つめている。私たちは見つめ合う。どくんどくん、と。ナイフ越しにフェリックスさまの心音が聞こえる。周りの音がなくなり、その脈動が全てになる。


私の心は凪いでいた。代わりに身体がざわめいた。なんだろう、これ。痛みが遠ざかる。自分の心臓が、フェリックスさまと同じリズムになっていく。頭がぼうっとして、なぜか気持ちいい。現実にいないみたいだ。ふと、唐突に。今、私とフェリックスさまは心臓が繋がっていると思った。それが嬉しい。


強烈な熱が全身を駆け巡る。甘い痺れに身もだえしたくなった。殺します、と伝える声は、火照った響きをしている。気持ちの思うまま、私はフェリックスさまに微笑みかける。父の声が頭の片隅に響いた。獲物に愛着を持つな、という教訓。声は朧気に消えていった。手首を動かし、フェリックスさまにトドメを刺す。


途端、凄まじい量の赤い煙が噴き出した。先ほどまでの熱が引き、現実に戻ってくる。激痛後、ふっと左腕の噛みつきが緩んだ。フェリックスさまの咳き込む音が耳に響く。ぐっとナイフを抜く。そこで目の前が突然白くなった。あれれ。なぜか身体がビリビリする。私は倒れた。起きようと思うも、なぜか身体が動かない。ざー、と耳の中で何かが聞こえる。変なの、自分がなくなるみたいだ。やがて音もプツンと聞こえなくなった。

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