【51】鹿。あの時の鹿を思い出す。
黒い霧に撫でられながら、フェリックスさまに近づく。刺すまでの工程を考える。……前からは無理だ。後ろに回ろう。ナイフは左手で持つ。右腕で顎を持ち上げて固定する。その状態で左側の防具の隙間にナイフを潜り込ませる。そして心臓に突き刺すのだ。
私の力でできるかはわからない。いくら女の中では力があるほうとはいえ、制御を失ったフェリックスさまの全力の抵抗を押さえ込めるとは思えなかった。でも、弱音は吐けない。頭が冷える。やるしかない。殺すのだ。
拘束魔法の陣内に入る。フェリックスさまが私の方に殺意溢れる目を向けた。凄まじい恫喝の声が、耳をビリビリと打つ。拘束魔法が限界まで突っ張っている。とんでもない膂力だ。全身の筋肉が盛り上がっている。首筋や米神には血管がくっきり浮かび上がっている。
その様子を無言で見ながら通り過ぎ、後ろに回る。すう、と深呼吸。躊躇うな、恐れるな。声かけなんてしない。どうせ聞こえていないだろう。ナイフを左手に持った。フェリックスさまの首に右腕を回す。ぐっと締め上げようとした。
「う、わ!」
途端に、すごい力で振り払われる。拘束魔法はまだ健在だ。それでも上半身の僅かな動きだけで私の固めからあっさり逃れてしまう。弾かれて一歩後退してしまった。フェリックスさまの後ろ姿を見る。絶叫を繰り返す獲物。身を捩って罠から抜け出そうとしている。抜けだしたら最後、周りにあるもの全てを食い散らかそうとするだろう。
なぜだろう。頭は冷えたままだ。それなのに目が熱い。じわ、と目の奥から涙が滲みそうになる。視界が不良になるから止めてほしい。唇もしっかり引き締めていないと、震えてきそうだ。どういう感情から来るものだろう、これは。ナイフをぐっと握り直した。ばくんばくんと私の身体は脈打っている。
「っ!!」
私はもう一度首に手を回した。今度はしっかり踏ん張り、全身を使って固定しようと試みる。先ほどは遠慮と僅かの恐怖でできなかったが、固定の際に身体を密着させた。当然相手は全力で抵抗してくる。身体が振り落とされそうになる。させない! 私は歯を食いしばって腕に力を込める。きっと私の顔もフェリックスさまと同様、尋常ではない。とにかく必死だ。今、今だ! 殺す!
ナイフを防具の浮いた部分に潜らせる。服を切り裂き、なんとか筋肉に切っ先を食い込ませた。抵抗が大きく、一気に刺し込めない。ああ、位置がよくなかった。肋骨にがちがち当たる。刺し込んだまま少し引き、切っ先の向きを変える。心臓と関係ないところで、抉るようなかたちになる。ぎゃ、というフェリックスさまらしくない悲鳴が心苦しい。私の額をだらだら汗が伝っている。鹿。あの時の鹿を思い出す。中途半端に矢が刺さり、苦しみ悶えるあの姿。
無我夢中でナイフをめり込ませていく。心臓に切っ先が触った。もう少し。そう思った瞬間、バキッと不穏な音がした。一瞬、頭が真っ白になる。気づいたら私は地面に倒れていた。フェリックスさまの左腕の拘束魔法が、一段階外れたのだ。まだ腕は吊り上げられたままだ。しかしさっきより可動域が増えた。振り回された肩口に殴られ、私は衝撃で倒れてしまったのだ。
「サシャさん!」
「……やはり無理か!? 御使いに何かあれば、他の狂病予備軍の治療もできなくなる。これ以上は!」
「っ大丈夫です!」
咄嗟に返事した。無理と判断されたが最後、フェリックスさまは殺される。絶対治します! とルドルフさま達に宣言する。ナイフをぎゅっと握りしめ直す。諦めてたまるか。
は、と気づく。先ほどの振りほどきの衝撃で、少しだけ心臓を抉ったようだ。僅かに赤い煙が噴き出している。苦渋の叫びが辺りに響いた。黒い霧、魔界の瘴気が聖物に抵抗しようとしているのか。バキッともう一度嫌な音。狂人の力は想像を絶する。右腕の拘束魔法も一段階外れた。このままでは。




