【50】場合によっては死ぬだろう。
走りすぎて脇腹が痛い。吐き気がしてきた。でも立ち止まっている場合ではない。会場に着くと、私は出迎えられた。フードを被っていないので、相手も戸惑いの様子だ。見た目はただの平民の娘だから。私は聖物のナイフを取り出して見せた。これで言葉はなくとも相手に話は通じた。すぐに対応できるか聞かれた。頷く。ぜいぜい言いながらこちらも聞いた。
「フェリックスさまは今どうなって?」
年嵩の騎士さまの一人が苦々しい顔で答える。
「幸い、魔法で拘束できている。だが魔法使いたちが消耗すれば、拘束が破られる勢いだ。……その場合は、もう止める手立てがない。おまけに彼は複数回狂病を発症させている経歴がある。大多数の命を守るため、殺すしかないだろう」
「っ! あの人の再発はちゃんと理由があります! 事が終わったら、私がその理由を説明しますから!」
「わかった。とにかくこっちへ来い。これ以上時間を無駄にできん」
幸い、ほとんど人払いされていた。闘技エリアの真ん中に、真っ黒な霧を噴き出すフェリックスさまがいた。他の騎士さま達が奮闘したのだろう。彼は傷だらけだった。得物の剣は既に手元から弾き飛ばされている。拘束魔法の鎖で腕は吊り上げられ、足は両膝立ち状態で押さえ込まれていた。理性を失った獣。まさにその表現に値する。三日前に見た優しい表情はどこにもない。気狂いのように叫びながら、拘束を解こうと身を捩っている。
「フェリックスさま!」
声をかけるも、応答はない。叫ぶだけだ。……狂病者は末期状態まで行くと、なりふり構わない殺戮人格になる。サラエルさまがそう言っていた。まさに言う通りだ。でも、今からでも心臓を抉って殺せば、元に戻せるはず!
「……!」
私が近づくと、フェリックスさまは吠えた。……形相まで変わってしまっている。彼を知らない人がこの様を見れば、人型の魔物だと信じただろう。胸が痛い。フェリックスさまは何も悪くないのに、こんな目に遭うなんて。体質と黒い霧が最悪の因果関係を持ってしまったばっかりに。
ギシギシと魔法の鎖が悲鳴を上げていた。相手は両膝立ちの前かがみ状態だ。後ろからドスンと刺せれば楽だが、無理だろう。胸当てをしているのだ。幸いなのは、重装ではないということ。さらに、戦闘の衝撃で装備の金具が一部外れたのか。胸当てが浮いて正面側には隙間があるということ。なんとか隙間からナイフを潜らせ、そこから心臓に突き刺せば。
刺すのなら、身体を固定した方が確実だ。私をここまで案内してくれた、後ろに控えている騎士さまやルドルフさまにその旨を伝えた。フェリックスさまを押さえていてほしい。だがまさかの返事だった。
「それはできない」
騎士さまの一人がそう答えたのだ。ルドルフさまも唇を引き結んでいる。
「どうしてです!?」
「僕らはこれ以上近づけない。今は僕たちでもあいつから出る黒い霧が見えてる」
「霧に近づくと、身体が動かなくなってくる。剣を吹き飛ばしたのは遠距離攻撃からで、拘束魔法も原理は罠型。なんとかあそこに誘導して捕縛したのだ」
ちょっと! サラエルさま! ここにきて黒い霧について新情報ですけど! 末期状態だと黒い霧にそんな力が? そんなのありですか!? あれ。でも私は大丈夫だ。今もちょっと霧を浴びてるけど特に何ともない。ナイフを持っているから? ……なるほど。つまり私は全力で拘束魔法を解こうと暴れているフェリックスさまを何とか押さえつけて心臓にナイフを入れ、殺さないといけないと。
くそ。思わず悪態が出た。場合によっては死ぬだろう。もし拘束魔法が解けたら私なんてマナ攻撃で木っ端微塵だ。でも、やるしかない。私ができなかったら、フェリックスさまはこの場で殺されてしまう。そんなことさせるものか。私は覚悟を決めた。




