【46】獲物から、目を逸らしたくなった。
「…………」
獲物は私を静かに見つめ返している。眩しいものを見るように、少しだけ目を細めていた。優しさの中に、熱がある。久々に見た眼差しだった。告白をお断りしてからは、見る機会がなくなった情熱。今日は顔に血の気があって、寒い日なのに暑そうに見えた。目の前の身体が僅かに身動ぎする。何だか少し、気怠そうだ。
私と目が合うと、フェリックスさまは控えめに微笑む。今から殺されるのに、それはあまりにも不釣り合いな表情だ。その微笑みを見た途端、お腹の奥がきゅっと痺れた。身体が微かに熱くなる。彼の深呼吸のリズムがナイフ越しに伝わった。なぜだろう。獲物から、目を逸らしたくなった。今までそういうことはなかったのに。
「殺しますね」
了解の声を聞いてから、ナイフで心臓を抉る。瞬間、目の前の身体がぐっと硬直した。見つめ合った瞳が焦点を失う。絶命だ。かは、と息が零れ落ちるのを聞く。真っ赤な煙が噴き出したのを、意識の片隅で認識する。
一拍の沈黙。それからの蘇生。フェリックスさまの肩がびくっと跳ねた。一瞬だけ視線が彷徨うも、今一度こちらを見返してくる。全力疾走したように息を荒げて呼吸している。呼気が少し震えていて、なんだか切ない。目尻が少し濡れている。熱に浮かされた瞳が、死ぬ直前も、今生き返ったときも。変わらずにこちらを見ていた。ナイフをゆっくり引き抜く。なぜか私も緊張していたらしい。少し手のひらが湿っていた。
「……大丈夫ですか?」
「っ。ああ、平気だ。次回からは、これでお願いしたい」
声はまだ少し掠れていたが、苦痛の色はない。フェリックスさまは重そうに瞼を瞬きして、それから額の汗を拭っていた。顔にまだ少し、火照りの名残がある。フェリックスさまの全身を見た。目の前の身体はいつの間にかしっとり汗をかいていた。今の彼は疲れた様子で、ぐったり弛緩している。何だか、その姿を見ると……。私は自分の心音を聞いた。いつもより少し速い気がする。
「は!」
「どうした?」
「赤い煙! どれくらいの量が出ているか見てなかったです!」
なんという不覚。フェリックスさまの狂病の手がかりの一つなのに。しおしおと謝罪を伝える。
「気にするな。俺が苦しんでないか、心配してくれたのだろう? 次の機会に確認すればいい」
「うう」
心配、していたわけではない気がする。でもなんと言えばいいのか。私はもごもご口を動かすだけにした。私のぼんやりにも、フェリックスさまは大らかな姿勢だ。優しい。何はともあれ、これで武術大会の準備は万全だろう。フェリックスさまはさっと制服を着直す。もう帰る様子だ。明日から大変だろうしね。先ほどまでの様子はもう見当たらない。なのに、私の脳裏にはさっきの表情が焼き付いていた。
「武術大会、頑張ってくださいね」
「ああ。今日はありがとう」
軽く手を振って、フェリックスさまは私の家から出て行った。それを見送り、扉をパタンと閉める。私は一人になった。
「……」
これからは正面からフェリックスさまを殺すのか。何だか妙な心地だ。どっちつかずというか。困ったような、困っていないような。うーん、少し熱っぽい気がする。今日は早く寝よう。明日は狂病者がいないかの見極めもあるしね。フェリックスさまが大会でいい成績を残せますように。




