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心臓を、抉る。  作者: kanon
急転と露呈
38/61

【36】「なんとかなります」

先ほどまで騒がしかった私の家は、今は打って変わって静かだ。聞こえるのはぜいぜいという乱れた呼気。私は震える腕でナイフを引き抜く。身体が一瞬、ぐらぐらした。極度の緊張から解放され、足の力が抜けてしまった。感覚がない。目に汗が入ってきた。それをぐっと腕で拭う。今気づいた。全身汗でびっしょりだ。


私は呆然と部屋を見回す。棚から落下し、床中に散らばる道具類。脚の折れたミニテーブル。転がる木のカップ。そして全開となった家の入口。


「…………とびら」


たぶん私の第一声はおかしかった。普通ここは、フェリックスさまに無事を確認するとか、ルドルフさま達にお礼を言うとか。そういうことを言うべきだった。でも仕方ない。頭が回っていなかったのだ。なんかもう、なんて言えばいいかわからなかった。勿論、思考停止はすぐに振り切る。私は正気付き、そして声をかける。


「フェリックスさま。大丈夫ですか……?」


返事は期待していなかった。死の衝撃もあるだろう。どう見ても呆然自失の様子。意識はあるが、心はない。そういう状態。これはフェリックスさまだけとも言えない。私もある意味そうだし、ルドルフさまもエミルさまもだ。ルドルフさまが声を出す。いつもの優しそうな響きが今はない。抑揚がなく、ピリピリした雰囲気。


「僕とフェリックスは、一回外に出る。エミル、サシャさんの部屋の片づけを手伝って」


「は、はい……!」


エミルさまは半泣きだ。ルドルフさまがフェリックスさまの肩を支えて立たせる。そのままずるずる家の外に引きずっていく。


「…………サシャ、すまない」


耳を澄ませないと聞こえないくらいの謝罪が聞こえた。気にしないでください。私は大丈夫です。元に戻ってよかったです。そういうことを言う場面だ。でもどれも口をついて出てこない。それを言ったとして、フェリックスさまの気持ちが楽になるとは思えない。結局、私はひどい言葉だけを吐いた。


「今日のこと。報告しないでくださいね」


返事はなかった。部屋の片づけはそんなに難しいことではなかった。零れたお酒を拭く。棚の道具を元の場所に戻す。落下の衝撃で壊れたものはごみ箱へ。フェリックスさまが踵で蹴りつけた床は少し凹んでいたが、これくらいなら生活に支障はない。ミニテーブルは、なんとか脚の部分を補修してみた。とりあえず応急処置。どうしようもないのは木っ端微塵にされた出入口の扉だ。ど、どうやってここまで破壊したんだろ。マナ使ったのかな? 扉の前に立ってなくてよかった。


作業中、エミルさまをそっと見た。目が真っ赤だった。泣きながら片付けしていたのだ。とてもじゃないが、こちらから声はかけられない。私は床に散乱したものの中に見慣れないものを見つけた。紐が千切れ、さらに揉み合いに巻き込まれたのだろう。ズタボロになったうさぎのしっぽが落ちている。


うさぎのしっぽ、今は在庫がなかったはず。そう思って、すぐに気づく。紐の色に見覚えがあった。フェリックスさまにあげたものだ。ここにあるということは制服のどこか、裏地などにつけていたのかも。それがさっきの騒動で取れてしまったと。お守り、つけていてくれたのか。私はうさぎのしっぽを見る。毛皮は汚れて毛羽立っている。もうこれは駄目になってしまった。私はそれを一時だけ手で転がした。そしてそれをごみ箱に入れた。


「扉は明日、依頼をかけて建てつけ直しますから。今日は宿屋に泊まってください。お金を渡しますね」


「いえ、開け放しは物盗りが怖いですし」


「勿論、俺がここを見張っていますから。とにかくサシャさんはゆっくり休んでください」


エミルさまにそう言われ、私は自宅を出た。明日には家に戻れるといいんだけど。外に出ると、木陰のところにフェリックスさまとルドルフさまがいた。近寄ろうとしたが、ルドルフさまが有無を言わさぬ雰囲気で先手を取る。


「サシャさん、今日は本当に申し訳なかった」


「いえ、そんな……」


「エミルから宿屋に行けって言われた? お金ももらった?」


「はい」


「じゃあ、それで。ちゃんとしたところに泊まるんだよ。……時間がほしい。こっちから連絡するから」


私は頷くしかなかった。二人の横を通り過ぎる。先ほどまで獲物だったフェリックスさまを見る。……その表情を見た時、私は何か言わなければと思った。けれど、何て言えば。いずれ狂病は治ると励ます? 御使いのことを隠していてごめんなさいと謝る? どっちも違う気がする。私はこう言うのみにした。


「フェリックスさま、大丈夫ですよ」


「…………」


「なんとかなります」


うーん。自分の語彙力の無さが憎い。もっとこう、彼の気持ちが楽になることが言えれば。でも実際これが本音だ。今日という危機を私たちは乗り切れた。私の家がちょっと壊れたけど、被害としては最小限だと思う。五回目の狂病は終わった。それでよかったじゃないか。今日だって乗り越えられたんだ。これからも乗り越えられる。大丈夫、なんとかなるはず。私は宿屋を探しに早歩きしていった。

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