第四夜『最後の客』
最初に帰ると言い出したのは、大口だった。
「もう食べるものがない!」
「帰る理由が最低」
「来年はもっと用意しろ!」
「今年と同じ量です」
「足りん!」
「あなたがハナコの分まで食べたからでしょう」
「一個だけだ!」
「三個」
「二個だ」
「まだ言うの?」
大口は立ち上がり、名残惜しそうに空の皿を覗き込んだ。
「本当にないのか?」
「ない」
「棚は?」
「ない」
「奥は?」
「ない」
「エルシアの分は?」
「帰れ」
「ではまた来年だ!」
「はいはい。また来年」
「待ちな」
老婆が呼び止めた。
「なんだ!」
「それ置いていきな」
「何を?」
「皿」
大口の手に、空の皿が握られていた。
「……食えんぞ?」
「じゃあなんで持って帰るの」
「菓子が乗ってたからだ!」
「返して!」
エルシアが皿を奪い取る。
「危なかった……」
「何がだ?」
「こっちの台詞だよ」
「では今度こそ帰る!」
「うん」
「エルシア!」
「今度は何?」
「来年も食われろ!」
「嫌だよ!」
「唾液はもっと減らす!」
「だから量の問題じゃないって!」
「また来年!」
「また来年!」
大口は最後まで笑いながら扉の向こうへ消えた。
エルシアは扉を閉め、髪に触れた。まだ少しべたついている。
「……ほんと最悪」
「でも臭くないよ」
「そこは褒めるところじゃない」
「そう?」
「そう」
誰の声だったか確かめる前に、狼男が立ち上がった。
「では俺も行くぞ!」
「普通に帰ってね」
「もちろんだ!」
全員が狼男を見る。
「……なんだ?」
「今、吠えようとしたでしょう」
「してない!」
「息吸ったよね」
「息くらい吸う!」
「あなた死んでるでしょう」
「…………」
「ほら」
「アオ――」
「口塞いで!」
大口はもういなかった。
「あ、大口帰ったんだった!」
「俺をなんだと思っている!」
「大口なら一口だったのにね」
「ハナコまで何を言ってるの!」
狼男は不満そうに鼻を鳴らした。
「ならば来年だ!」
「来年は皿割らないでね」
「鉄にしろ!」
「しない」
「木!」
「しない」
「では俺が持ってくる!」
「余計なもの持ってこないで」
「酒も!」
「もっと駄目」
「百年使える卓も!」
「なんで百年」
「長く生きるんだろう?」
エルシアは狼男を見た。
本人は何でもないことのように笑っている。
「……誰が」
「お前だ!」
「勝手に決めないで」
「では二百年!」
「増やせばいいと思ってるでしょう」
「死んだらこっちで宴をすればいい! それまではここだ!」
「はいはい」
「返事は一回だよ」
老婆が横から言った。
「おばあちゃんは黙ってて」
狼男は扉を開けた。
「長く生きろよ、エルシア!」
「あなたに言われたくない」
「また来年!」
「また来年」
扉が閉まる寸前、狼男が大きく息を吸った。
「やめ――」
「アオオオオオオオ――!」
「やっぱりやった!!」
通りの向こうから犬たちの声が次々と返ってくる。
エルシアは額を押さえた。
うるさい。近所迷惑だ。毎年やめろと言っている。
それでも狼男の声が遠ざかり、犬たちまで静かになると、さっきまで二人の巨体が占領していた場所が妙に広く見えた。
夜が少しだけ、部屋の中へ入り込んできたようだった。
「静かになったね」
ハナコが言った。
「これで静かって思えるのがおかしいけどね」
「トイレ行っていい?」
「帰る前に?」
「うん」
「好きにして」
「やった」
裸足がぺたぺたと廊下を遠ざかる。
老婆がその背中へ声を飛ばした。
「ハナコ! 来年はもう少し長いのを穿いてきな!」
「やだー!」
「足を出すんじゃないよ!」
「来年も言うのー?」
「言うよ!」
「じゃあ来年もこれで来るー!」
「まったく、最近の子は」
「死んで何年経った子に言ってるの」
「最近は最近だよ」
やがてハナコが戻ってきた。
「じゃあ帰るね」
「うん。また来年」
「……」
「ハナコ?」
「……」
「帰らないの?」
「帰るよ」
「じゃあ何してるの」
「来年、トイレの布変わってる?」
「知らないよ」
「青がいい」
「注文しないで」
「石鹸も違うのがいいな」
「自分の家じゃないんだけど」
「あとね」
「ハナコ」
「なに?」
「帰りたくないなら、そう言えば?」
「違うよ」
即答だった。
ハナコは白い足の先で床を擦った。
「……まだ夜だから、いるだけ」
「そう」
「うん」
エルシアも、それ以上は言わなかった。
「じゃあトイレもう一回行ってくる」
「それ帰りたくないだけでしょう!」
「違うよー!」
「帰りなさい!」
「はーい」
ハナコは笑いながら玄関へ向かった。
「エルシア」
「なに?」
「死んだら教えてね」
「どうやって」
「あ」
「考えてなかったでしょう」
「うん」
「じゃあ無理だね」
「そっか」
ハナコは少し考えた。
「じゃあ、また来年」
「また来年」
「来年もトイレ借りるね」
「それは約束しなくていい」
ぺたぺたという足音が遠ざかっていった。
エルシアは扉を閉める。
しばらくして廊下を見た。
トイレの扉が半分開いていた。
「……ハナコ」
返事はない。
「閉めてけって毎年言ってるでしょう……」
エルシアは廊下へ行き、扉を閉めた。
来年もきっと、開けっぱなしにする。
そう思えることを、エルシアは嫌いではなかった。
部屋へ戻ると、空いた椅子が三つになっていた。
「私もそろそろ行くかねえ」
老婆が腰を上げた。
「うん」
「なんだい。引き止めないのかい」
「引き止めたらいるの?」
「帰るよ」
「じゃあ聞くな」
「かわいくない孫だねえ」
「誰に似たんだろうね」
「私じゃないよ」
「そこが一番似てる」
老婆は帽子を被り直すと、エルシアの前まで来た。
「ちょっと、あんた」
「何」
骨張った指がエルシアの髪へ触れる。
「まだべたべたじゃないか」
「大口に言ってよ」
「ちゃんと洗って乾かしな」
「分かってる」
「そのまま寝るんじゃないよ」
「寝ないよ」
「風邪ひくよ」
「死者に風邪の心配されるほど弱ってない」
「そういう奴ほど、ころっと逝くんだ」
「縁起でもない」
「死んでる奴に縁起を求めるんじゃないよ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
こういうことを、生きている頃にも言われていた。
髪を乾かせ。夜更かしするな。ちゃんと食べろ。身体を冷やすな。
そのたびに、うるさい、と返した。
最後にそう返したのがいつだったのか、エルシアは覚えていない。覚えていないことを、毎年この夜になると思い出す。
もっと話しておけばよかった、とは思わない。
あの頃の自分なら、きっと同じようにうるさいと言った。今の記憶を持ったまま戻ったとしても、三日もすれば言っている気がする。
だから謝るつもりもなかった。
ただ、もう少しくらい、ちゃんと聞いておけばよかったとは思う。
「聞いてるのかい」
「聞いてるよ」
「じゃあ返事」
「はいはい」
「一回」
「はい」
やっぱり、うるさい。
老婆は満足そうに頷いた。
「店、ちゃんと続けな」
「続けてる」
「飯も食べな」
「食べてる」
「寝な」
「寝てる」
「嘘だね」
「なんで分かるの」
「あんたのばあちゃんだからだよ」
「死んでも面倒くさいなあ」
「死んだくらいで、ばあちゃんを辞められると思うんじゃないよ」
「辞めていいよ」
「嫌だね」
老婆は玄関へ向かった。扉に手をかけてから、一度だけ振り返る。
「それと、エルシア」
「まだあるの?」
「生きな」
短い言葉だった。
生きている頃なら、そんなことを言われても意味が分からなかっただろう。
今だって、分かったとは言いたくない。
「……さっきは、あんたを生かしてるのは私たちだって言ってたのに」
「だからだよ」
「意味分かんない」
「分からなくていいさ」
「雑」
「年寄りの話なんて半分くらい聞き流すもんだよ」
「じゃあ全部聞き流す」
「半分だって言ってるだろう」
エルシアは笑った。
「また来年、おばあちゃん」
「ああ。また来年」
「来年も同じお菓子だからね」
「もう少しましなのにしな」
「全部食べた人に言われたくない」
「確認しただけだよ」
「何個確認したの」
「忘れたねえ」
老婆は大きな鉤鼻を得意げに上げ、そのまま扉の向こうへ消えた。
エルシアは扉を閉めた。
最初におばあちゃんを見送った年には、言えなかった言葉だった。
また来年。
一度失った相手に、もう一度それを言える。
その贅沢を、エルシアは知っている。
だから今年も言った。
来年も言うつもりだった。
「お優しい方ですね」
首なし紳士が言った。
「どこが?」
「すべてです」
「じゃあ一年貸してあげる」
「遠慮いたします」
「でしょうね」
エルシアは席へ戻った。
もうテーブルの向こうまでよく見える。
「あなたは?」
「私も、そろそろ」
「そう」
紳士は立ち上がり、膝から自分の頭を持ち上げた。上着を整え、頭を抱え直し、椅子をきちんとテーブルの下へ戻す。
「今年も大変お世話になりました」
「こちらこそ」
「大変楽しい時間でした」
「それならよかった」
「来年は帽子を持参してみようかと思います」
「置き場所増やさないでよ」
「被ればよいのでは?」
「どこに」
紳士は黙った。
「……来年までに考えておきます」
「一年かけるんだ」
「難題ですので」
玄関まで行き、靴を履く。上着の裾を直す。頭を右腕から左腕へ持ち替える。それからもう一度、靴を見る。
「長いね」
「何がでしょう」
「帰る準備」
「そうでしょうか」
「帰りたくないの?」
紳士は少し考えた。
「ええ。少々、名残惜しいようです」
「頭が?」
「私がです」
「そっか」
「しかし、帰らなければ来年また来る楽しみがなくなりますので」
「……そうだね」
「別れというものも、悪いことばかりではありません」
「死んだ人が言うと重いよ」
「これは失礼しました」
「謝らなくていい」
紳士は扉を開けた。
「では、今度こそ」
「うん」
「また来年」
「また来年」
抱えられた頭が丁寧に会釈した。
扉が閉まる。
音が消えた。
エルシアはテーブルを見た。
大口が使っていた大きな椅子。
狼男が後ろへ傾けていた椅子。
ハナコが裸足をぶらつかせていた椅子。
おばあちゃんが菓子を勝手に取っていた椅子。
首なし紳士が、頭の置き場所に困っていた椅子。
五つとも、空いていた。
祭りの音はまだ遠くに残っている。それなのに家の中は静かだった。
広いな、とエルシアは思った。
毎年、同じことを思う。
「今年もすごかったね」
「ほんとにね」
エルシアは答えた。
それから、テーブルの向こうを見る。
そこに、一人いた。
いつからいたのかは分からない。
いや。
エルシアには、分かっていた。
最初からずっと、そこにいた。
騒ぐでもなく、菓子を奪うでもなく、屋根で吠えるでもなく、トイレへ行くでもない。ただ、いつもの椅子に座っていた。
人に見えた。
少なくとも、ほかの五人よりはずっと。
頭もある。牙もない。大きな口も、鉤鼻も、獣の耳もない。祭りの人混みに立たせれば、誰も怪異だとは思わないだろう。
その前には、小さな皿があった。
エルシアが夜になる前、包みから出して置いた菓子が一つ。
まだ手をつけられていない。
「食べなかったの?」
「あとで」
「もうみんな帰ったよ」
「うん」
エルシアは空いた椅子を一つ引いた。
さっきまであれほど狭かった部屋には、今は好きなだけ場所がある。
それでも彼女は、いつもと同じ席へ座った。
「今年も来たの」
「今年も来たよ」
「そう」
「うん」
外で、祭りの終わりを知らせる鐘が一つ鳴った。
夜明けまで、もうあまり時間はなかった。




