第5夜『夜明けまで』
外で、祭りの終わりを知らせる鐘が鳴った。
エルシアは空になった椅子を見渡した。
大口が使っていた椅子。狼男が傾けていた椅子。ハナコが裸足をぶらつかせていた椅子。おばあちゃんの椅子。首なし紳士の椅子。
さっきまであれほど狭かった部屋が、今は妙に広い。
「今年もすごかったね」
「ほんとにね」
エルシアは答えた。
テーブルの向こうには、まだ一人いた。
ルシアンは最初からそこにいた。
大口がエルシアの頭を咥えたときも、狼男が吠えたときも、ハナコがトイレへ消えたときも、おばあちゃんが菓子に文句をつけたときも。
いつもの椅子に座って、時々会話に混じりながら、ずっとそこにいた。
「そういえば」
「なに?」
「おばあ様、ずっと僕を睨んでたね」
エルシアはルシアンを見た。
「何したの」
「何も」
「嘘」
「本当に何もしてないよ」
「じゃあなんで睨まれるの」
「エルシアの隣にいただけ」
「それだよ」
「昔からだよ」
「昔からあなたが何かしてたんでしょう」
「何もしてないって」
「おばあちゃん、理由もなく人を睨まないよ」
「僕は九歳の頃から睨まれてた」
「なんで年まで覚えてるの」
「初めて『うちの孫を泣かせたら薬にするよ』って言われた年だから」
「何したの」
「エルシアが僕のお菓子を取った」
「私が悪いじゃん」
「そうだよ」
「じゃあそう言えばよかったでしょう」
「言ったよ」
「それで?」
「もっと睨まれた」
「なんで」
「知らない」
エルシアは笑った。
「今年は何て言われたの」
「『いつまでそこにいるつもりだい』って」
「……」
「だから、『エルシアが生きてる間は』って」
「馬鹿なの?」
「どうして?」
「それ言ったら睨まれるに決まってるでしょう」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも本当のことだよ」
「そういうところだよ」
ルシアンは少し笑った。
生きていた頃から、こういう男だった。
何でもない顔で、返事に困ることを言う。エルシアが黙ると、勝ったとも困らせたとも思わず、ただ待っている。
その待ち方まで、昔と変わらなかった。
「……ずっといるの?」
「いるよ」
「普段も?」
「うん」
「ここに?」
「だいたい」
「だいたいって何」
「店にも行くから」
「ついてきてるの?」
「うん」
「怖いんだけど」
「どうして?」
「どうしてだと思う?」
ルシアンは本当に分からないような顔をした。
「朝から?」
「朝から」
「夜も?」
「夜も」
「寝てるときも?」
「いるよ」
「それはやめて」
「分かった」
「分かるんだ」
「見ないようにする」
「いなくなる選択肢は?」
「ないかな」
「重い」
「そう?」
「重いよ」
「でもエルシアも僕のこと考えてるでしょう」
「それとこれは違う」
「同じじゃない?」
「違う」
「そうかな」
「そうだよ」
テーブルの上には、使った皿とカップが残っている。
ルシアンの前にだけ、小さな菓子が一つ残っていた。
「それ、食べないの?」
「あとで」
「さっきも言ってた」
「知ってる」
「好きだったでしょう」
「うん」
「だから買ったのに」
「知ってるよ」
「……何で」
「見てたから」
エルシアは黙った。
「買ったところから?」
「うん」
「最悪」
「嬉しかったよ」
「見てるなら、わざわざ用意する意味ないじゃん」
「あるよ」
「何が」
「僕のために買ったんでしょう」
「……たまたま」
「昔から嘘が下手だね」
「うるさい」
「祭りでもない日に買うこともあるよね」
「…………」
「僕が好きだったやつ」
「見すぎ」
「見てるしかないからね」
その言い方だけが、少し違った。
エルシアは顔を上げた。ルシアンはいつもと同じ顔で座っていた。
「……退屈じゃないの」
「何が?」
「ずっと見てるだけなんでしょう」
「うん」
「話せないし」
「うん」
「触れないし」
「うん」
「私は見えないし」
「そうだね」
「それで一年?」
「一年」
「毎年?」
「毎年」
「よくやるね」
「エルシアだからね」
「答えになってない」
「僕にはなってるよ」
エルシアはカップに残った茶を飲んだ。とっくに冷めていた。
「私だけ待ってると思ってた」
「知ってる」
「……知ってたの?」
「うん」
「言ってよ」
「言えないよ」
「今日言えばよかったでしょう」
「今言った」
「遅い」
「ごめん」
「軽い」
「じゃあ、もう一回?」
「いらない」
「そう」
ルシアンは笑った。
「僕も待ってるよ」
「……」
「毎日」
「それ、もっとずるい」
「どうして?」
「私は一年に一日しか会えないのに」
「僕もだよ」
「ずっと見てるじゃん」
「見てるだけだよ」
「それでも」
「エルシアは僕を見ないでしょう」
「見えないんだから仕方ないでしょう」
「うん。だから今日を待ってる」
返す言葉が見つからなかった。
ルシアンは一年間そこにいて、一日だけエルシアに見つけてもらう。
それを毎年繰り返していた。
「……寂しくないの」
「寂しいよ」
あっさり返ってきた。
「そこは否定しなよ」
「どうして?」
「知らないけど」
「エルシアも寂しいでしょう」
「別に」
「嘘」
「うるさい」
「知ってるよ」
「何を」
「僕がいなくなってからのエルシア」
「…………」
「ずっと見てたから」
「それ禁止」
「何が?」
「何でも知ってるみたいに言うの」
「全部は知らないよ」
「じゃあ何を知ってるの」
「エルシアがちゃんと生きてること」
「当たり前でしょう」
「うん」
「店もやってる」
「うん」
「町の人とも話す」
「うん」
「一人でご飯も食べるし、寝るし、笑うし」
「うん」
「祭りだって嫌いじゃない」
「知ってる」
「だったら何」
「安心してる」
エルシアは眉を寄せた。
「僕がいない世界で、そのまま生きてていいんだよ」
「……」
「僕がいなくても笑っていいし、楽しいことがあっていい。僕の知らないものを好きになってもいい」
「見てるくせに」
「うん」
「知らないものなんてないじゃん」
「それもそうだね」
「台無し」
「ごめん」
ルシアンは少し笑った。
「でも、僕がいないからって減らさなくていい」
「何を」
「エルシアの人生を」
エルシアは黙った。
「僕のところへ来るために生きなくていい」
「そんなことしてない」
「知ってる」
「じゃあ言わないで」
「でも、言っておきたかった」
「なんで」
「みんな、さっき楽しそうに誘ってたから」
「あの馬鹿ども」
「楽しそうだったね」
「明日でもいいよって言われた」
「ハナコらしいね」
「あなたは違うの?」
「うん」
「死んだら毎日会えるかもしれないよ」
「そうだね」
「だったら」
「まだいいよ」
あの騒ぎの中で聞いた声だった。
「……あれ、やっぱりルシアンだったんだ」
「うん」
「紳士さんかと思ってた」
「僕もそう思われてる気がしてた」
「言えばよかったのに」
「面白かったから」
「性格悪い」
「昔から知ってるでしょう」
「知ってる」
エルシアは笑って、それから小さく息を吐いた。
「私が死ぬの、嫌?」
「嫌だよ」
「もう死んでるくせに」
「だからだよ」
「死んだら会えるのに?」
「会えるかもしれないね」
「じゃあいいじゃん」
「よくないよ」
「なんで」
「エルシアには、まだ明日があるから」
あまりにも普通に言うから、エルシアはまた黙った。
「僕にはないけどね」
「……そういう言い方嫌い」
「ごめん」
「謝ればいいと思ってる?」
「思ってない」
「じゃあ言わないで」
「分かった」
少しだけ静かになった。
外の喧騒はもうほとんど聞こえない。窓の向こうが、ほんの少し白み始めていた。
「でも」
「まだあるの?」
「あるよ」
「今日よく喋るね」
「一年分だから」
「重い」
「さっきも言われた」
「自覚して」
「難しいな」
ルシアンはエルシアを見た。
「忘れなくていいからね」
「……何を」
「僕のこと」
「自分で言う?」
「うん」
「普通は忘れて前を向けとか言うところでしょう」
「嫌だよ」
「嫌なんだ」
「忘れられたくない」
「そこは素直なんだね」
「エルシアが僕のことを考えてるの、嬉しいから」
「…………」
「でも僕だけ考えて生きなくていい」
「面倒くさいなあ」
「そう?」
「忘れるな。でも自分の人生を生きろ。死ぬな。僕はずっと見てる」
「うん」
「重いよ」
「そうかな」
「重い」
「じゃあ少し離れる?」
「……」
「エルシア?」
「今それ聞く?」
「聞いてみただけ」
「ずるい」
「そう?」
「そう」
ルシアンは笑った。
「離れないよ」
「聞くなよ」
「ごめん」
「本当に悪いと思ってる?」
「少し」
「少しなんだ」
「エルシアがそう言うと思ってたから」
「性格悪い」
「知ってるでしょう」
「知ってる」
生まれた頃から、と言いかけてやめた。
そんなことは、言わなくても二人とも知っていた。
窓の外が、また少し明るくなる。
ルシアンはまだ椅子に座っている。帰る支度はしなかった。立ち上がりもしない。
「そろそろだね」
「うん」
「今年も終わりか」
「うん」
エルシアはルシアンの前にある皿を見た。
「結局、食べなかったね」
「うん」
「好きだったのに」
「好きだよ」
「じゃあ食べればいいのに」
「そうだね」
「来年は別のにする?」
ルシアンは少しだけ考えた。
「お菓子は来年はいらないかな」
エルシアは顔を上げた。
「……なんで?」
「なんとなく」
「何それ」
「なんとなく」
「私、それ嫌い」
「知ってる」
「だったらちゃんと言って」
「来年になったらね」
「ずるい」
「うん」
「来年、来るんでしょう」
ルシアンは笑った。
それが返事だったのかは、分からなかった。
「エルシア」
「なに」
「今年も会えてよかった」
「……うん」
「またね」
「うん」
ルシアンは椅子に座ったままだった。
エルシアも立たなかった。
窓から朝の光が少しずつ入り、祭りの夜を薄くしていった。
いつからだったのかは分からない。
気づいたときには、もうルシアンの気配を感じなくなっていた。
エルシアはしばらく、そのまま座っていた。
やがて立ち上がり、空になった皿を重ねた。
大口の椅子を戻した。
狼男の椅子を戻した。
ハナコの椅子を戻した。
おばあちゃんの椅子を戻した。
首なし紳士の椅子を戻した。
最後に、ルシアンの前に置いていた小さな皿を手に取る。
菓子は一つ、そのまま残っていた。
エルシアはそれを包み直した。
椅子には手をかけなかった。
朝になった。




