第二夜『騒がしい客人たち』
扉が吹き飛ぶかと思った。
「エルシアァァァァ!」
「うるさ――」
言い終わる前に、灯りが消えた。
いや、違う。
目の前が暗くなった。
「ちょっと待っ――」
がぶり。
頭から食われた。
「んんんんん!!」
エルシアは両手で巨大な口を押し返した。ぬるり、と嫌な感触が指の間を滑る。
ようやく頭が抜けた。
「っはあ! やめてって毎年言ってるでしょう!」
「今年は少なめだ!」
「何が!」
「唾液!」
「量の問題じゃない!」
髪を触る。
べたっ。
「最悪……」
「臭くはないぞ!」
「知ってる! 本当に臭くないのが余計に腹立つ!」
大口の男は、がははと笑った。立っているだけで頭が天井につきそうなほど大きい。笑うたび、耳元まで裂けた口がさらに広がる。そこから透明な糸が一本伸びた。
「垂れてる!」
「おっと」
「床! 床に落とさない!」
エルシアが布を取りに向かった隙に、大口はテーブルの前へ座った。長い脚が収まりきらず、膝が卓上へ出そうになっている。
「狭くなったか?」
「あなたが大きくなったんじゃない?」
「死んでから?」
「知らないよ」
大口は大皿を見るなり、焼き菓子を二つまとめて口へ放り込んだ。
「あ、それ二つともあなたのだけど、一個ずつ食べなさいよ」
「分ける意味があるか?」
「皿に二つ置いた私の気持ちを考えて」
「来年は一個にしろ」
「文句言うなら来年からないよ」
「それは困る」
即答だった。
そのとき、廊下の奥から扉の開く音がした。
「トイレ借りたよー」
エルシアの手が止まる。
廊下から少女が歩いてきた。肩で切り揃えられた黒い髪。白いブラウスに、膝までの赤い吊りプリーツスカート。その下から伸びた白い足は、靴も履かずにぺたぺたと床を踏んでいる。
「……いつ入ったの?」
「さっき」
「さっきっていつ」
「ガブってしてたとき」
「玄関から入って」
「開いてたよ?」
「そういう意味じゃない」
少女は気にせず空いている椅子へ座った。
「お菓子どれ?」
「その前に聞きたいんだけど」
「なに?」
「ハナコ、トイレで何してたの?」
「トイレ」
「だから何を」
「秘密」
「死んでるのに?」
「失礼だなあ」
大口が腹を抱えて笑った。
「今年も行ってるのか!」
「うん」
「何がそんなに楽しいんだ!」
「教えない」
「私もそれが知りたい」
ハナコは答えず、菓子を一つ取った。
「これおいしい」
「あなたは平和だね」
外から遠吠えが聞こえた。
エルシアの眉が動く。
「まさか」
「アオオオオオオオオオ――!」
「うるさい!!」
窓を開ける。
屋根の上に大きな影が立っていた。月を背負い、全身の毛を風になびかせ、長い鼻先を空へ向けている。
「アオオオオ――!」
「やめなさい!」
「今夜の月を見ろ、エルシア! 血が騒ぐ!」
「近所迷惑!」
「この夜に吠えずして、いつ吠える!」
「生きてた頃から毎月吠えてたでしょう!」
「アオオオオオオ――!」
あちこちの家から犬が吠え始めた。一匹、二匹。さらに遠くから三匹。
「ほら!」
「今年も元気だな!」
「あなたに返事してるんじゃない!」
祭りを楽しむ人々が、屋根の上の男を見上げて歓声を上げた。
「おお、すごい仮装だ!」
「本物みたい!」
「もう本物でいいから降りてきなさい!」
エルシアが怒鳴ると、男は屋根から飛び降りた。
「窓から入るな!」
「では玄関から!」
「最初からそうして!」
数秒後、玄関が勢いよく開いた。
「来たぞ!」
「知ってるよ!」
大柄な男が胸を張って入ってきた。耳までびっしりと毛に覆われ、口元から牙が覗いている。後ろでは太い尾が扉に挟まりそうになっていた。
「今年も変わらんな!」
「あなたもね」
「いや、毛艶が良くなった」
「死んでるのに?」
「死んでいても手入れは必要だ!」
「今日それ二回目」
「なんの話だ?」
「こっちの話」
狼男は椅子を引いた。
「酒は!」
「ない」
「なぜ!」
「去年あなたが暴れたから」
「暴れていない!」
「テーブル壊した」
「盛り上がっただけだ!」
「椅子も壊した」
「楽しかったな!」
「私は楽しくなかった」
ハナコが菓子をかじりながら笑う。
「窓も割ったよね」
「あれは大口だ!」
「俺じゃない!」
「あなたたち、今年壊したら来年は外だからね」
二人が同時に黙った。
「分かればよろしい」
「……去年のほうがおいしかったねえ」
エルシアは振り返った。
いつの間にか、テーブルの端に老婆が座っていた。腰は曲がり、黒い服は足元まで長い。白髪の上には先の折れ曲がった黒い帽子。そして顔の真ん中には、顎へ届きそうなほど大きく曲がった鼻がある。
エルシアはその鼻を見た。
昼間、自分と同じ魔女の格好をして笑っていた少女の顔が浮かぶ。
「……いたな」
「何がだい」
「なんでもない」
魔女といえば大きな鼻。
そんな姿を誰が広めたのか知らないが、少なくとも身内に一人、否定できない見本がいた。
「いつ来たの?」
「扉からだよ。あんたたちと違ってね」
老婆は大口、ハナコ、狼男を順番に見た。
「聞いたかい」
「俺は扉からだ!」
「扉ごと壊しかけただろう」
「壊してない!」
「ハナコは?」
「トイレ」
「聞いた私が馬鹿だったよ」
老婆は菓子をもうひとかけ口へ入れた。
「それ、今年の新作なんだけど」
「そうかい。去年のほうがおいしかったねえ」
「去年も同じ店」
「じゃあ私の舌が死んだのかねえ」
「おばあちゃん、全部死んでるでしょう」
「あらやだ」
老婆は笑って、もう一つ取った。
「去年のほうがおいしかったんじゃないの?」
「確認だよ」
「二個目だけど」
「念入りな確認だよ」
「三個目に手を伸ばさないで」
「細かい女だねえ。誰に似たんだか」
「少なくともおばあちゃんじゃないと信じたいね」
「血は争えないよ」
「やめて」
大口が吹き出した。
「似てるぞ!」
「どこが!」
「口!」
「私はそこまで悪くない!」
「自覚がないところまでそっくりだねえ」
「おばあちゃんは黙って食べてて!」
「あんたが喋らせてるんだろう」
老婆は知らん顔で三個目を取った。それをかじりながら、今度はハナコを見る。
「それにハナコ」
「なに?」
「あんた、足は出すもんじゃないよ」
ハナコが自分の白い足を見る。
「またそれ?」
「去年も言ったよ」
「来年もこの服だよ」
「じゃあ来年も言うよ」
「かわいいでしょ?」
「短すぎるよ。膝まで丸出しじゃないか」
「寒くないよ」
「でしょうね。死んでるもの」
「おばあちゃんもね」
「私は死んでたって足は出さないよ」
「そういう問題?」
「そういう問題だよ。身だしなみってものがあるんだ」
ハナコはエルシアを見る。
「エルシアは?」
「巻き込まないで」
「この子も若い頃は――」
「おばあちゃん」
「なんだい」
「お菓子没収するよ」
老婆は黙った。
菓子だけはしっかり手元へ引き寄せた。
そのとき、玄関から控えめな音がした。
こん、こん。
全員が扉を見る。
「……誰だ?」
「まともな客」
エルシアは少し感動しながら扉を開けた。
「こんばんは。今年もお邪魔します」
紳士が立っていた。
きちんと仕立てられた上着。磨かれた靴。背筋の伸びた立ち姿。
首から上がないことを除けば、非の打ち所がなかった。
その頭は左腕に抱えられている。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
紳士は抱えていた頭を軽く持ち上げた。
「皆さん、お久しぶりです」
「おう!」
「こんばんはー」
「遅いぞ!」
「時間どおりですよ」
玄関で靴を脱ぎ、丁寧に揃える。それから自分の頭を抱えたままテーブルへ来た。
「今年も賑やかですね」
「まだ始まったばかり」
「それは何よりです」
紳士は椅子へ腰を下ろし、自分の頭をテーブルの上へ置いた。
「そこに置かないで」
「おや」
「お菓子が取れない」
「これは失礼」
頭が移動した。
今度はエルシアの茶の前だった。
「そこも邪魔」
「重ね重ね失礼を」
「膝に置いて」
「承知しました」
紳士は自分の頭を両手で持ち上げ、膝の上へ置いた。
「頭を膝に置けって会話、毎年してる気がする」
「適切な置き場所というのは、なかなか難しいものです」
「首の上は?」
「それができれば苦労はしません」
「ごもっとも」
大口が笑い、狼男も笑った。ハナコはなぜか拍手した。
「ところで大口さん」
「なんだ?」
「食べながらお話しするのはおやめなさい」
「細かいな!」
「狼さんも、先ほどから椅子を後ろへ傾けておられますが危険ですよ」
「倒れん!」
「床が傷みます」
「お前はエルシアの母親か!」
「いえ、首なしです」
「見れば分かる!」
「ならばよろしい」
エルシアは吹き出した。
「あなた、今年も変わらないね」
「そうでしょうか」
「見た目もね」
「それはお互い様でしょう」
「私は首あるよ」
「存じております」
ハナコが身を乗り出した。
「ねえ、顔こっち向けて」
「なぜです?」
「そっちだと私から見えない」
「なるほど」
紳士は自分の頭を持ち上げ、ハナコのほうへ向けて膝に置き直した。
「これでよろしいですか?」
「うん」
「お気遣いありがとうございます」
「身体、反対向いてるけどね」
「それは困りましたね」
「困ってないでしょう」
エルシアが言った直後、狼男がテーブルを叩いた。
「それより菓子だ! 俺のはどれだ!」
「叩かないで!」
「まだ壊れていない!」
「壊れてからじゃ遅い!」
「祭りだぞ!」
エルシアの動きが止まった。
「……それ、昼間も聞いた」
「便利な言葉だな!」
「あなたまで使うな!」
ハナコが手を上げる。
「祭りだぞー!」
「ハナコまで!」
「祭りだぞ!」
「大口は黙って食べて!」
焼き菓子を口へ突っ込む。
「ふぉいひい」
「食べながら喋らない!」
「先ほど私も申し上げました」
「紳士は今いい!」
「承知しました」
「エルシア、茶!」
「狼、自分で取って!」
「届かん!」
「目の前でしょう!」
「ばあさん、それ俺の菓子だ!」
「名前でも書いてあるのかい」
「二つしかないんだぞ!」
「一個にしろって言ってたじゃないか」
「あれは来年の話だ!」
「おばあちゃん返して!」
「もう食べたよ」
「早い!」
「トイレ行ってくるねー」
「ハナコ! 何回目!?」
玄関の外を、仮装した子どもたちが笑いながら駆け抜けていった。大通りからは太鼓と笛。酒場からは歌声。時折、大きな歓声まで響いてくる。
それでもエルシアの家の中のほうがうるさかった。
「アオオオオオ――!」
「家の中で吠えるな!!」
祭りは夜が深くなるほど盛り上がっていった。
通りを歩く人々の姿も、昼間とはすっかり変わっている。
角を生やした者。牙をつけた者。顔を真っ白に塗った者。長い爪をつけ、羽を背負い、尾を引きずって歩く者。
誰もが普段とは違う姿で笑っている。
その間を、青白い顔の男が歩いた。
誰も振り返らない。
人より長い腕を持つ女が、屋台を覗き込んだ。店主は笑って菓子を渡した。
小さな角を頭に生やした子どもたちの横を、本当に角を持つ何かが通り過ぎていった。
今夜なら、分からない。
人が異形の姿をする。
異形が人の中へ紛れ込む。
どちらがどちらなのか、分からない。
昔から、この町ではそうしてきた。
理由を知らずに仮装する者もいる。知っていて笑う者もいる。ただ祭りだからと、誰より派手な怪物になろうとする者もいる。
それでよかった。
一年に一度だけ、生きる者と、そうでない者を隔てる境が薄くなる。
今夜は、そんな夜だった。




