第一夜『祭りに行かない魔女』
「魔女さん、そこ踏むよ!」
声に足を止めると、エルシアの靴先すれすれを橙色の布が走っていった。
「危ないな」
「だから言っただろ!」
「踏む前に言って」
「言ったよ!」
通りの向こうで、梯子に上った男が笑った。
男の手から伸びた布は二階の窓を渡り、その先でまた別の男が引っ張っている。まだ半分も張れていない。
「それ、今からやるの?」
「間に合う!」
「祭り、今日だけど」
「夜までにはな!」
「曲がってるぞー!」
「そっちが引っ張りすぎなんだ!」
「俺のせいか!?」
頭上で言い争いが始まった。
エルシアは橙色の布を跨ぎ、抱えていた紙袋を持ち直した。
祭りは今日だ。
リュネールの大通りは、朝からずっとこんな調子だった。
「魔女さーん!」
今度は前から声が飛んできた。
振り向くより先に、小さな黒い塊が人混みを抜けてくる。
「見て!」
少女はエルシアの前で両手を広げた。
黒い布を引きずるほど長く垂らし、頭には先の折れ曲がった帽子。鼻には大きな付け鼻までくっついている。
「魔女!」
「……私、そんな鼻してる?」
少し遅れて追いついた母親が吹き出した。
「そこ?」
「大事でしょう」
「かっこいい?」
「鼻以外はね」
「これがいいの!」
少女が鼻を押さえて得意げに笑う。
帽子がずり落ちたので、エルシアはその先をつまんで戻してやった。
「夜までそれかぶるなら、前が見えるようにしておきなさい」
「うん! 魔女さんもそれ着る?」
「着ない」
「なんで?」
「本物だから」
「あ、そっか!」
納得した少女は、また人混みの中へ走っていった。
母親が頭を下げ、そのあとを追っていく。
その向こうでは、丸々と太ったカボチャが三つ、石畳の上を転がっていた。
「待て待て待て!」
八百屋の主人が追いかけている。
一つを通りすがりの男が足で止め、もう一つを屋台の女が拾い上げた。最後の一つだけが勢いよくこちらへ向かってくる。
エルシアは片足を出した。
ごつん、と靴にぶつかって止まる。
「助かった!」
「商品を転がして売るようになったの?」
「祭りだからな!」
「便利な言葉ね、それ」
主人は二つのカボチャを抱えて走ってきた。
エルシアの足元の一つも拾うのかと思えば、それだけ残して立ち上がる。
「やるよ」
「いらない」
「店先に置いとけ」
「薬屋に?」
「お前の店は地味なんだよ」
「薬屋に華やかさを求めないで」
「祭りだぞ!」
やっぱり便利な言葉だった。
「持って帰って」
「もうやった」
「いらない」
「もらっとけ!」
主人は逃げた。
「……カボチャを置いて逃げるな」
聞こえているはずなのに振り返らない。
仕方なく紙袋の上へカボチャを載せる。急に重くなった荷物を抱え直したところで、甘い匂いが流れてきた。
大通りの角にある焼き菓子屋だ。
店先には夜の屋台に並べるらしい菓子が山積みになっている。星、月、カボチャ、猫。形は様々なのに、どれも同じような焼き色だった。
「エルシア!」
嫌な予感がした。
「口開けて!」
「嫌」
「味見!」
「自分で食べて」
「朝から食べすぎた!」
「知らないよ」
店主の女が焼き菓子を一つ持って飛び出してくる。
両手が塞がっているのをいいことに、そのまま口元へ突きつけられた。
「ほら!」
「……」
「ほら!」
仕方なくかじる。
「どう?」
さくりとした生地の中から、木の実の香りが広がった。
「おいしい」
「よし!」
「それだけ?」
「それだけ!」
店主は満足そうに戻っていった。
夜の祭りのための菓子なのに、すでにずいぶん減っている。試食という名目で配り続けているらしい。
「夜の分、なくなるよ」
「また焼くからいいの!」
店の奥から返事が飛んできた。
隣の酒場では樽が積み上げられている。一つ、二つ、三つ。数えていたら、奥からさらに二つ運ばれてきた。
「そんなに飲むの?」
「足りないくらいだ!」
樽を抱えた男が答える。
「二日酔いの薬、明日の分も頼む!」
「飲む前から買いに来ないで」
「備えだよ!」
「飲まないという備えを覚えて」
「祭りだぞ!」
またそれだ。
どこからか笛の音がした。
軽快な曲になるはずだったのだろう。三音目で盛大に外れた。
通りのあちこちから笑い声が上がる。
「もう一回!」
「今の何の曲だ!」
「夜までに間に合うのかー!」
「うるさい! 練習中だ!」
笛が最初から始まる。
今度は二音目で外れた。
拍手が起きた。
「悪化してるじゃない」
エルシアも笑った。
いつもなら人と荷車が行き交うだけの大通りが、今日はどこを見ても何かが増えていた。
軒先には橙や紫の布。窓には切り抜いた紙飾り。街灯には小さなカボチャがぶら下がり、昼間だというのに試しに灯りをつけている者までいる。
「それ、もう夜まで消さないつもり?」
「点くか確認してるんだ!」
「全部?」
「全部点いた!」
なぜか周囲から拍手が起きた。
「よかったね」
何がそんなに嬉しいのか分からない。
でも、悪くない。
エルシアは人の間を抜けて歩いた。
夜の衣装をもう着ている子ども。屋台の場所を巡って言い争う大人。飾り布を運ぶ途中で絡まり、そのまま二人で転んだ若者。
荷車を引く角の生えた獣が、道端のカボチャを食べようとして飼い主に叱られている。
屋根の上では、長い耳をした男が飾りを結びつけていた。梯子は見当たらない。どうやって上ったのかは知らないし、誰も気にしていない。
祭りは夜からだというのに、この町はそこまで待つことすらできないらしい。
「魔女さん!」
また呼ばれた。
「今年は来るんだろ?」
魚屋の主人だった。
「行かないよ」
「またか!」
「また」
「一晩くらい店を放っておけよ」
「店は閉める」
「じゃあ来ればいいじゃないか」
「予定があるの」
「毎年それ言ってるぞ」
「毎年予定があるからね」
主人は不満そうに眉を寄せた。
「祭り、嫌いなのか?」
エルシアは周囲を見た。
笛がまた外れた。誰かが笑った。転がったカボチャを子どもが蹴り返し、八百屋の主人が悲鳴を上げた。
「好きだよ」
「じゃあ来いよ!」
「それとこれは別」
「分からんなあ」
「分からなくていいよ」
手を振って、その場を離れた。
大通りを少し進み、角を一つ曲がる。
祭りの音が少し遠くなる。
静かになった、というほどではない。開いた窓から今夜何を食べるか相談する声が聞こえ、家の前では親子が橙色の紙を切っている。向かいの老婆は椅子に座って、その様子へあれこれ口を出していた。
「そこ曲がってるよ」
「おばあちゃん、さっきからそれしか言ってない!」
「曲がってるものは曲がってるんだよ」
エルシアが通ると、老婆がこちらを見る。
「今年も行かないのかい」
「行かないよ」
「そうかい」
それだけ言って、また親子の飾りへ視線を戻した。
「ほら、そこも曲がった」
「もう!」
エルシアは笑いながら通り過ぎる。
大通りから一本入ったこの道に、彼女の店はある。
二階建ての建物に挟まれた、小さな薬屋。濃い木の扉と窓。軒先には薬草を模した看板が下がっている。
そして今日、その看板の横には見覚えのない橙色の飾りが三つ増えていた。
「……また増えてる」
朝は二つだった。
近所の子どもたちだろう。一つ取れば残りも気になる。全部取れば、たぶんまた増える。
エルシアは少し考えて、そのまま扉を開けた。
「ただいま」
誰に言うでもなく口にする。
「遅い」
返事があった。
店の中には客がいた。
「……なんでいるの?」
「閉まってたから待ってた」
「閉まってたなら帰って」
「腰の薬くれ」
「昨日渡したでしょう」
「なくした」
「帰って」
「魔女さん!」
「祭りだからって薬は増えないよ」
「祭り関係ないだろ!」
結局、薬は出した。
その客が帰れば次が来た。次が帰れば、また一人。
喉が痛い。足を捻った。今夜たくさん食べる予定だから胃の薬が欲しい。
「予定を減らして」
「祭りだぞ」
「はいはい」
日が傾いても、町の浮かれ具合は少しも収まらなかった。
むしろ暗くなるにつれ、ひどくなった。
大通りに灯りがともる。
昼間から試していた街灯も、軒先のランタンも、ひとつ、またひとつと橙色に輝く。
窓の外を通る人の数も増えていった。昼間はまだ普段着だった大人まで、妙な帽子をかぶり、顔に色を塗り、子どもより楽しそうに歩いていく。
屋台から流れてくる香ばしい匂いに、酒場から響く笑い声。どこかで太鼓が鳴り始める。
遠くから、あの笛が聞こえた。
「お」
エルシアは手を止めた。
朝から何度も外していた曲が、今度は最後まで続いた。
一拍遅れて、大通りから大きな歓声が上がる。
「できたんだ」
笑っていると、扉が勢いよく開いた。
「魔女さん、始まるぞ!」
昼間の魚屋の主人が顔だけを覗かせている。
「知ってる」
「今からでも来い!」
「行かないって」
「途中からでもいいぞ!」
「行かない」
「頑固だなあ!」
そう言いながら本人はもう楽しそうだった。
「じゃあな!」
「飲みすぎないでね!」
「祭りだぞ!」
扉が閉まった。
「本当に便利だな、それ」
エルシアは時計を見る。
いつもより少し早いが、もう新しい客は来ないだろう。今夜ばかりは、薬屋より屋台のほうが人気がある。
扉の札を裏返した。
本日の営業は終わり。
鍵を掛け、窓のカーテンを閉める。
それでも町の音までは閉め出せない。笑い声も、太鼓も、笛も聞こえてくる。子どもたちが何かを叫びながら通りを駆けていった。
エルシアは店の奥へ入った。
袖をまくる。
「こっちも始めようか」
棚から大きな皿を出した。
昼間に買った菓子を紙袋から取り出していく。木の実の焼き菓子。砂糖をまぶした小さな揚げ菓子。果実を練り込んだもの。固い飴。
「あいつは二つないとうるさい」
二つ置く。
「これは食べないくせに文句を言うんだよね」
それでも置く。
「こっちは……」
少し考えて、別の皿へ移した。
壁際から椅子を運び、テーブルの周りへ並べていく。
一人で使うには多すぎる数になったところで、エルシアは戸棚を開けた。
奥にしまってあった小さな包みを取り出す。包みを開き、中身を一つだけ小皿へ置いた。
ほかの菓子と同じように、それもテーブルへ並べる。
大通りから鐘が鳴った。
祭りの始まりを告げる鐘だった。
途端に町中から歓声が上がる。
エルシアは窓のほうを見た。
「始まったね」
返事はない。
まだ誰も来ていない。
湯を沸かし、自分の茶を淹れる。
湯気の向こうに、空いた椅子が並んでいた。
この椅子を出すのは、一年に一度だけだった。
毎年、同じ夜。
町が一年で一番騒がしくなる夜に、エルシアの店にも客が来る。
昼間に薬を買いに来る者たちとは違う。
祭りの帰りに立ち寄る者たちでもない。
彼らは、祭りが始まってからやって来る。
そして夜が明ける前に帰っていく。
エルシアは立ち上がり、さっき掛けたばかりの扉の鍵を外した。
夜の薬屋なら、本当は閉めておくものだ。
けれど今夜だけは、開けておかなければならない。
外では太鼓が鳴っている。
誰かが歌い、誰かが笑っている。
エルシアは席へ戻って茶を一口飲み、扉を見た。
「今年は、静かに入ってくればいいけど」




