第89話 飾りの族長じゃない、本物の権力を取りに行く
「きゃっ……どうしよう!」
思わず声が漏れた。
その時――
ふわり。
身体が軽くなった。
まるで風に支えられているような感覚だった。
そして次の瞬間。
魔王の手が、
私の腰と頭をしっかりと受け止めていた。
目の前。
すぐ近くに、彼の瞳。
彼は剣を交えながらも、
私が転ぶことを警戒していたのだ。
「母上、大丈夫ですか?」
エリンが駆け寄ってくる。
ベビーカーの中の双子も、
驚いたように手足をばたつかせていた。
「ええ、大丈夫よ」
「父上が支えてくれたの」
でも――
さっきの、あの浮いたような感覚は?
気のせい……よね。
「無事か」
魔王が静かに問う。
「はい。ありがとうございます」
私は体を起こしながら答えた。
この人と一緒にいると、
不思議と安心できる。
エリンがベビーカーのベルトを外すと、
双子が私の周りをくるくる飛び始めた。
ママ、大丈夫?
ママ、大丈夫?
そんなふうに言っているみたいだった。
「大丈夫よ」
「ごめんね、心配かけたわね」
早く答えないと、
今にも泣き出しそうだった。
二人の大きな瞳には、もう涙が溜まっている。
私が笑うと、
双子はすぐに元気を取り戻した。
「きゃはは!」
「きゃは!」
――今日はここまでね。
剣の稽古は終わりにした。
私たちはそのまま戻ることにした。
帰り道。
ふと見ると、
エリンが双子の頭を撫でながら、
何かを褒めている。
珍しい。
エリンがああやって褒めるなんて、
そうそうない。
普段は叱られてばかりなのに。
今日は何か、
いいことをしたみたいだった。
そうして戻り――
食事の時間。
魔王と子どもたちが食事をしている間、
私は一人、外の景色を眺めていた。
いつの間にか――
光は完全に消え、
辺りは闇に包まれている。
*シールド解除
私の瞳が、赤く染まった。
そして分かる。
今が、夜の時間帯に入ったのだと。
不思議だった。
ヴァンパイアの身体は、
太陽が完全に消えたことを
自然に感知している。
(索敵)
周囲の気配を掴む力。
まるでレーダーのように、
全方位の情報が一気に流れ込んでくる。
今回の試練に備えた、
私の切り札だ。
――ウィィン。
半径一キロが、
一気に視界に広がる。
*特に異常はありません。そして……
炎の魔人が報告する。
けれど、言葉の終わり方が少し妙だった。
(まさか……襲撃?)
*野生のNPCです。
それを聞いて、
ようやく息を吐いた。
襲撃でなくてよかった。
野生NPCなら、
この雪山では珍しくもない。
その程度なら、騎士たちで十分だ。
実際、向こうには
何重ものバリケードが敷かれている。
(試練の情報は……
アイリス山に近づかないと分からないのね?)
*はい。その通りです。
炎の魔人も、
今回の試練については詳細を持っていない。
ただ――
索敵が使える以上、
現地に行けば何か掴める可能性はある。
(分かった。ありがとう)
私は使い魔との通信を切った。
(よし)
(必ず成功させる)
私がヴァンパイア一族の長となれば、
魔王の大きな助けになる。
◆◆◆
数日後。
私たちは、
アイリス山の麓へ到着した。
生体リズムも本来の状態に戻し、
日没後――シールドも解除済み。
私は目を閉じ、
エステルの記憶を辿る。
純血のヴァンパイアは、稀少だ。
極めて低い確率でしか生まれない。
それが――
エステル。
だから純血は、
一族の長の養子になることが多い。
もっとも――
今の族長に、かつてのような権力はない。
ただ形だけの存在で、名誉職に近い。
「それを変えるのよ」
飾りじゃない。
本物の権力を握る。
私は、そのためにここへ来た。
(今、ヴァンパイアを動かしているのは――十二座会議体)
他種族でいう最高評議会。
千年以上を生きる古参たち。
強大な力を持つ支配層。
人間で言えば、公爵や侯爵クラス。
つまり――
十二座会議体を潰せば、
ヴァンパイアの村は掌握できる。
その時。
向こう側に、
松明を持った一団が見えた。
ヴァンパイア村からの派遣だ。
馬車を降りると、
彼らが頭を下げる。
「魔王様にお目にかかります」
だが――
幹部の姿はない。
露骨な軽視。
(ひどいわね)
ギルガオンと部下たちが顔をしかめる。
ここには魔王もいる。
明らかな無礼だった。
以前の件――
金と土地の件で、まだ遺恨があるのか。
とはいえ、
あれは向こうが仕掛けてきた話だ。
「抑えろ」
魔王の一言で、
ギルガオンはようやく引いた。
「ここから先は、馬車では進めません」
ここからは徒歩だ。
(子どもたち、ついてくるって言わないわよね……)
一瞬そう思った。
けれど――
意外にも素直だった。
「ここで待っていなさい」
「母上、すぐ戻ってきてください」
「はい!」
「きゃはは!」
「きゃは!」
子どもたちは笑って手を振る。
ギルガオン。
魔王。
そして騎士たち。
私は彼らと共に、
山頂へ向かって歩き始めた。
子どもたちが大人しく待ってくれる。
そう思った。
――でも。
あの子たちが、
大人しくしているはずがない。




