第86話 妻を守るためなら、戦争になっても構わない
たとえ魔王が許したとしても――
子どもたちが――きっと止める。
きっと、母を絶対に行かせまいとする。
ふと、思い出した。
この前、ほんの少し母がいなくなったと勘違いした時、
エリンがわんわん泣いていた姿を。
双子はその時、
ただの遊びだと思って笑っていたけれど――
もし本当に、
母がいなくなったと分かっていたら――
きっとエリンに負けないくらい、泣いていたはずだ。
私は悩んだ。
(子育て中の母親が
気軽に外出できないのには、ちゃんと理由があるのね)
ウムカウテを迎えたエリン。
そして――
まだ赤ん坊の双子たち。
あの子たちを、
危険かもしれない場所に連れていくわけにはいかない。
かといって――
あの子たちが素直に、
私を待っていてくれるだろうか。
計画そのものは、
それなりによく練ってある。
でも、それはまだ
頭の中の話に過ぎない。
いざ実行しようとすると――
子どもたちの存在が引っかかる。
そんなふうに考えていた、その時。
魔王が口を開いた。
「私がそなたと共に行こう」
その言葉には、
決してこの手を離さないという意志が込められていた。
危険なはずなのに。
自分が狙われていると分かっていながら、
それでも彼は私と共に行くと言った。
「私にとって最も悲しいのは、
そなたに会えぬことだからな」
「ありがとうございます」
その覚悟が、伝わってきた。
いつも――
私と共にあるという覚悟。
「それに、私が行くのであれば、
子どもたちも一緒に連れていける」
「ギルガオンと我が騎士団を伴い、
参観という形で向かおう」
「子どもたちは厳重な警護の下に置かれる。
心配はいらぬ」
「家族も一緒に同行して、
見届けるということですね」
「いい方法だと思います」
計画変更。
私がいない間に
何か起きても困る。
ならば、いっそ――
魔王と子どもたちが
私の近くにいる方がいい。
家族全員で。
ヴァンパイア一族の村へ。
◆◆◆
「母上、冒険に出るみたいだね」
エリンと双子が、
またもや会話を盗み聞きしていた。
「うぎゃぎゃ」
「ぎゃぎゃ」
ぼくたちは?
ぼくたちは?
そんな声に聞こえた。
「一緒に行くことになりそうだよ」
その瞬間――
双子が両手を高く掲げた。
そして始まる、
歓喜のダンス。
喜びのダンス。
前にもやっていた、
あの腰振りダンスだ。
手を左右に振って、ふりふり。
手を取り合って、ふりふり。
ひとしきり踊ったあと、
エリンが少しだけ表情を引き締めて言った。
「でも……」
「母上の一族は、
母上と僕たちを歓迎しないかもしれない」
「うぐぐぐ」
「くぅぅぅ」
双子が、どうするの?という顔をした。
「母上の邪魔をするやつは、
僕たちが全部片付ける」
エリンの言葉に、
双子は楽しそうに笑った。
そして――
再び歓喜のダンス。
きゃあ!
ぎゃあ!
今度は双子が、
エリンの両脇にぴったりとくっついた。
一緒に踊ろう、と誘っているのだ。
難しくないよ。
腕を左右に振って、
お尻も一緒に振ればいい。
そんなふうに言っているようだった。
自分たちが両側に立つから、
エリンお兄ちゃんは真ん中ね。
そんな意味だ。
「やだ」
エリンは、
一秒も迷わずきっぱりと言った。
いくら下の二人のお願いでも、
それは無理だ。
ダンスなんて。
恥ずかしすぎる。
エリンは心の中で誓った。
自分は絶対に、
あんな踊りはしないと。
◆◆◆
軍団長ギルガオンは、
突然の呼び出しを受け、
急いで魔王の執務室へ向かった。
「親衛騎士団を準備しろ」
「そして密かに伝えよ」
「命を懸けて戦うことになるやもしれぬ、と」
ギルガオンは息を呑んだ。
親衛騎士団。
魔王の最側近たる護衛部隊。
それを動かすという意味だ。
(何が起きた……?)
魔王から放たれる気配が、
ただ事ではなかった。
「私と妻、そして子どもたちが
ヴァンパイア一族の村へ向かう」
「妻はエル・ギオルに挑む」
「エル・ギオル?」
「ヴァンパイア一族の長となる資格を得るための、
一人で挑む試練のようなものだ」
「興味深い形式ですね」
「洞窟の試練に入った瞬間から、
妻が戻るその時まで、気を緩めるな」
「もし奴らが、
我が妻に危害を加えかねぬ不審な動きを見せたら――」
「即座に叩け」
ギルガオンは唾を飲み込んだ。
「それでは戦争になります」
「構わん」
「私は妻を救い出し、
そのまま共に脱出する」
「お前は子どもたちを連れて、
村を離脱しろ」
「お前を信じている」
「であれば、追加で
軍団も配置いたしましょう」
ギルガオンは地図を広げた。
そして――
部隊の駐屯地点を定めていく。
「軍団はこの位置に……」
「ここは以前、
ヴァンパイア一族の使節団来訪時に
確保した地域です」
「よいな」
魔王の表情がわずかに緩んだ。
「それならば、
妻と子どもたちをより迅速に守れる」
ギルガオンは、
全身が震えるのを感じた。
(魔王様は……
ヴァンパイア一族を制圧するおつもりなのか?)
最強の軍団を
国境付近に展開する。
それはすなわち――
戦争を決断したも同然だった。
(妻と子どもを向かわせるのは……
まさか、囮か?)
(もはやヴァンパイア一族の横暴を
看過できぬとお考えなのか)
(エステル様が同じ一族である以上、
これほどの決断でもなければ
踏み込めなかったのだろう)
まだヴァンパイア一族内部の事情を知らないギルガオンは、
エステルと子どもたちを
ある程度安全が確保された囮だと考えた。
だとすれば、今回の軍事行動において
これ以上ない切り札だ。
まるで血も涙もない鉄血の君主としての魔王を、
目の当たりにしているかのようだった。
「怖いか?」
「いいえ!」
「我らは一騎当千の戦士。問題ありません!」
ギルガオンは胸の内で呟いた。
(正直……
これまでヴァンパイア一族の横暴には
何度も怒りを覚えてきた)
(エステル様の手前、
口に出せなかっただけだ)
ギルガオンは、もう一度唾を飲み込んだ。
そして――
ついに魔王が決断を下したのだと確信する。
(戦だ……!)
実際のところ、
魔王はそこまで考えてはいなかった。
だが――
軍団長ギルガオンは、
すでに侵攻作戦を思い描いていた。
戦争とは、こうして始まる。
たとえ指導層にその意図がなくとも、
現場を動かす者の判断によって
戦は引き起こされる。
アトランティスは二分され、
内戦へと発展する可能性すらあった。
島の未来は――
もはや一寸先も見えなくなっていた。




