第79話 ソフィアは、まだ自分が罠の中だと気づいていません
エリンの視線を受け、マハトラは指先で小さく合図を送った。
――片づいた、という意味だ。
「お前がそう言うなら、心配はいらないな」
スパイの件に関する、二人だけのやり取りだった。
マハトラが尋ねる。
「今日はどうされました?」
「母上が教育の件に興味を持っているみたいだ。失敗するなよ」
マハトラは肩をすくめた。
「そんなことをしたら魔王妃様に叱られてしまいます。私はただ、経験のある者に任せただけですよ」
エリンは眉を上げた。
「本当か?」
「書類上の経歴は立派でした」
「なんだか信用してない言い方だな」
マハトラは苦笑した。
「少しだけですがね。
とはいえ、今回の侍女教育は彼女に任せるしかありません」
そして深く息を吐いた。
「私一人で全ての仕事は回せませんから。クリスマス準備の支援でこちらも大忙しです」
エリンは軽く頷いた。
「わかった。少し早いけど――メリークリスマス」
「メリー? 何ですかそれは」
「メリークリスマス。クリスマスイベントの挨拶らしい」
その時だった。
ベビーカーの中で双子が体を揺らし始めた。
外に出たがっているらしい。
「またこの前みたいに廊下を飛び回られたら困る」
エリンは苦笑する。
「外に連れて行って遊ばせるよ」
双子をあやしながらベビーカーを押した。
マハトラが言う。
「エリン様も大変ですね」
「そうなんですよ」
エリンは肩をすくめた。
「下の二人が全然言うことを聞かない」
「僕の時はここまでじゃなかったのに」
もしエステルが聞けば、きっと微笑んだだろう。
「じゃあ僕は行きます」
エリンは言った。
「下の二人を外に連れて行きます」
「さっきの件、ちゃんと片付けておいてください」
「ご安心ください」
エリンはベビーカーを押し、そのまま廊下を去っていった。
マハトラはその背中を見送りながら小さく呟く。
「……大したものですね」
彼はふと周囲の空気を探る。
「空気を操作して、会話が外に漏れないようにしていたのですか」
「一体どうやって……?」
エリン一人の力では不可能なはずだ。
マハトラの目が細くなる。
「まさか……双子の力と合わせた?」
これまで他の魔族が思いつかなかった増幅魔法。
「ベビーカーを押して歩き回っていたのも……」
「あの技術を磨くためだったのですか?」
ルウェンは、魔王の長男が情けない姿を見せていると嘲った。
だが実際は違う。
それは――
誰にも気づかれず戦闘技術を磨くための訓練だった。
◆◆◆
魔王城は慌ただしく動いていた。
「その箱こっち!」
「急いで!」
「クリスマス準備で大忙しね」
「ほんとよ」
侍女たちは汗を流しながら走り回っている。
だが不満は少なかった。
イベントは五日間続く。
準備に参加すれば特別手当。
さらに追加休暇まで出るのだ。
「その点、あんたたちは楽よね」
誰かが見習い侍女たちに言った。
見習い侍女は今回の準備から外されている。
まだ研修期間だからだ。
「それでもお手伝いしたいです」
ソフィアが笑顔で言った。
若くて、気も利く。仕事もできる。
そのうえ読み書きまでできる。
自然と周囲から頼りにされていた。
「普通は見習いが中央層に行くことなんてないけど」
「あなたならあり得るわ」
「そうよ。あなたしかいないじゃない」
ソフィアの評価はいつも高かった。
成績はオールA。
中央層配属はほぼ確定だった。
その時だった。
見習い侍女全員に召集がかかった。
だがこういう呼び出しは珍しくない。
ソフィアも他の見習い侍女たちと共に集合場所へ向かった。
そこに立っていたのは一人の女。
ライカン・スロープ一族。
ルウェン。
(あれが青年団のエリート?)
ソフィアは心の中で笑った。
自分は闇の暗部で育った。
だがルウェンは違う。
良い家柄。
良い教育。
良い地位。
温室の花だ。
(ブラックを隠すための、表の駒ってわけね)
(まあいい)
あの女が何をしようと自分には関係ない。
――そう思っていた。
「私はこの城の副執事だ」
ルウェンが口を開いた。
高圧的な声だった。
「そして今回の侍女教育は私が総責任者となる」
侍女たちを見下ろす視線には
露骨な優越感があった。
「面接を行う」
「呼ばれた者から中に入れ」
呼ばれた見習い侍女たちは
順に動き始めた。
◆◆◆
ルウェンは審査席に座っていた。
両脇には行政官。
だがルウェンははっきり線を引いた。
「今回の選抜は私が主導します」
「その点を忘れないように」
行政官たちは曖昧に笑った。
やがて扉が開く。
見習い侍女たちが入ってきた。
その中にソフィアもいた。
彼女は他の侍女たちと同じように微笑んでいた。
(選ばれたら嬉しい)
そう見せるためだ。
だが内心は違う。
ソフィアの順番になった。
「教育担当になれたら嬉しいです」
そして少し言いにくそうに続けた。
「ただ、中央部署から声がかかっていて……そちらの研修も受けています」
つまり。
自分を選べば他部署と衝突する。
(これで外れる)
だがルウェンの表情は変わらない。
「それが何か?」
冷たい声だった。
ソフィアの瞳がわずかに揺れる。
「中央部署だろうが執事室だろうが」
「今回の教育責任者は私だ」
ソフィアはすぐ頭を下げた。
その後、わざと面接態度を硬くした。
(これなら落ちる)
面接は終わった。
「戻っていい」
見習い侍女たちは部屋を出た。
しばらくして。
マハトラが入ってくる。
「決まりましたか?」
ルウェンは教育施設の配置図を差し出した。
「これをご覧ください」
「ここ、動線が非効率です」
「こちらに移せば移動距離が半分になります」
マハトラは目を細めた。
「……よく気付きましたね」
ルウェンの表情が誇らしくなる。
「人員選抜は私の判断で進めます」
「そこにあなたが介入することはできません」
マハトラは穏やかに笑った。
「もちろんです」
「最終発表もあなたの名前でどうぞ」
ルウェンの目が輝いた。
「いいんですか?」
「ほとんどの計画はあなたが作ったのでは?」
少しだけ、罪悪感がにじむ。
マハトラは静かに言う。
「構いません」
「一番難しいのは最終選抜です」
「その大変な仕事をあなたが引き受けてくれました」
「それに先ほどの配置改善」
「見事でした」
「さすが教育行政の専門家ですね」
ルウェンは満足そうに笑った。
その時。
マハトラが言葉を添える。
「ただし一つ」
空気が冷えた。
「人間の侍女を乱暴に扱わないこと」
「魔王妃様の特別指示です」
ルウェンは眉をひそめた。
(また魔王妃か)
だが今は反論できない。
「……わかりました」
それに気を取られたルウェンは、気づかなかった。
なぜマハトラが
この教育計画を
丸ごと任せたのかを。
◆◆◆
「ソフィア!おめでとう!」
「やっぱりあなたよ!」
見習い侍女たちが笑いながら言った。
ソフィアも笑った。
「ありがとう」
だが周囲が離れた瞬間。
表情が消える。
(くそ……)
本来は中央部署に行くはずだった。
魔王執務室の近く。
それが目標だった。
だが今は――
教育部門。
それも準備組だ。
文字も読めない者たちを教える場所。
「なんで私が……」
わざと面接態度も崩した。
それでもルウェンは気にしなかった。
能力だけで選んだのだ。
しかも中央部署の課長のところまで行き
ソフィアを引き抜いた。
「副執事、強引すぎる……」
そんな噂まで流れていた。
「くそ……」
ソフィアの目が暗くなる。
(殺すか)
だがその時、見習い侍女たちが近づいてきた。
ソフィアは即座に表情を変える。
「おめでとう」
「楽な仕事でよかったね」
「ありがとうございます」
完璧な演技だった。
だが内心は違う。
(まさか……)
ふと考えた。
マハトラ。
あの男が気づいた?
だがすぐ首を振る。
あり得ない。
面接はルウェン。
選抜もルウェン。
発表もルウェン。
マハトラが介入する余地はない。
(目立ちすぎたか……)
ソフィアは教室の前に立った。
「はぁ……」
歯を食いしばる。
今は耐えるしかない。
その時だった。
ふと思い出す。
黒い瞳の女。
案内の途中で姿を消した見習い侍女。
(次に会えたら聞こう)
もしかすると
魔王妃側の部署かもしれない。
ならば――
情報が手に入る。
その時。
城の中央で鐘が鳴った。
窓の外を見ると
魔王の馬車が城へ入ってくるところだった。
ソフィアの目が細くなる。
魔王。
魔王の魔力を解析する。
その魔力に自然に溶け込む毒を仕込む。
そして――殺す。
それが――
ライカン・スロープ
ブラック要員
暗殺者ソフィアに与えられた任務だった。
だがソフィアは、まだ気づいていない。
自分がすでに罠の中にいることを。




