第76話 潜入したスパイはまだ気づかない
ソフィアは魔王城の廊下を歩いていた。
足取りは軽い。
自然で、淀みがない。
行き交う見習い侍女たちと、何一つ違いはなかった。
それが彼女の誇りだった。
完璧な偽装。
人間の歩き方。
人間の視線。
人間の呼吸。
すべて叩き込まれている。
ライカン・スロープ一族の中でも、
ソフィアは潜入任務を任される精鋭だった。
(この城の誰にも、私の正体は見抜けない)
魔族の気配は完全に消してある。
魔王城の結界が厳重なことも知っていた。
だが、それも想定済みだ。
失敗するはずがない。
ソフィアの任務は二つ。
一つは――魔王暗殺の準備。
そしてもう一つ。
マハトラの監視。
出発前、一族の長老はこう言った。
――マハトラを信用するな。
もしそれが事実なら。
魔王より先に始末すべき相手は、マハトラだ。
だが今は任務が先だ。
見習い侍女の期間が終われば、
希望する部署へ移ることができる。
魔王城でも、最も優秀な侍女が配される場所。
――魔王の執務室。
(そこまで行けば、準備は終わる)
ソフィアはわずかに口元を緩めた。
その時だった。
廊下の一角が騒がしい。
見習い侍女たちが
壁の前に集まっている。
「本当?」
「これ、何?」
「教育?」
壁には新しい告知が貼られていた。
魔王城侍女教育計画
「読み書きが苦手な侍女を対象に教育するんだって」
「勉強の時間も勤務扱いになるらしいよ」
「試験に合格したら賞金まで出るって!」
ざわめきが広がる。
ソフィアは告知を一瞥した。
教育。
しかも無料。
さらに給金まで出る。
(妙ね)
誰の発案だろう。
「私、勉強してみたかったんだ」
「よかった……本当に」
期待に顔を輝かせる侍女もいた。
だが全員ではない。
「私、字が全然わからないんだけど……授業ついていけるかな……」
すると隣の侍女が告知の下を指差した。
「大丈夫。準備組もあるって」
「準備組?」
文字を知らない者のための組。
そこで基礎を学び、その後に基礎教育組へ進めるらしい。
「すごい……」
見習い侍女たちはなかなか離れない。
だがソフィアはすぐに興味を失った。
(私には関係ない)
彼女はすでに読み書きができる。
その教育計画は、自分には無関係だった。
ソフィアは背を向け、歩き出す。
その計画が
自分の任務を縛る罠になるとも知らずに。
◆◆◆
ソフィアが去ったあと。
廊下の影から、一人の男が姿を現した。
マハトラだった。
「見事ですね」
彼は小さく舌を鳴らす。
ソフィアの偽装は完璧だった。
魔族を人間に見せる技術としては、かなりのものだ。
エリンの示唆がなければ、
マハトラでさえ見抜けなかっただろう。
だが、もう十分だ。
正体は把握した。
ならば――
彼女はすでに、蜘蛛の巣の中だ。
「さて……」
マハトラは書類を広げた。
魔王城侍女教育計画
「ちょうどいい」
ライカン・スロープ村から
追加の支援人員が来る予定だった。
ホワイトは表向きに動くスパイ。
ソフィアは潜伏しているブラック。
ホワイトはブラックの正体を知らない。
だからこそ使える。
ホワイトの手で、ブラックを縛る。
マハトラは静かに笑った。
「完璧ですね」
書類をめくる。
そこで別の文書が目に入った。
魔王城クリスマス計画
「クリスマス?」
初めて聞く行事だった。
計画には木の伐採や
様々な準備が記されている。
教育計画はまだ準備段階。
だが、この行事は
近く始まるらしい。
魔王城執事として、協力する必要があった。
マハトラは小さく笑う。
「いったい何を始めるおつもりでしょうね」
少し楽しみでもあった。
だが同時に思う。
「反発は大きそうですね」
そして、その予想は外れなかった。
◆◆◆
幹部会議。
会議室には反対の声が満ちていた。
「なぜそんなことをする必要があるのです?」
「費用がかかりすぎます」
「働かない時間が増えます」
マハトラは黙って聞いていた。
向かいには
魔王とエステル。
「金の無駄です」
「私もそう思います」
ほとんどの幹部が反対した。
視線がマハトラに向く。
だが彼は微笑むだけだった。
その時。
エステルが口を開く。
「働いてばかりでは駄目よ」
冷たい声だった。
「休息も必要」
「そうでなければ能率は上がらないわ」
エステルは幹部たちを見渡した。
「今までの暮らしは単調すぎる」
「任務、食事、休息」
「ただそれを繰り返すだけ」
「祭りも行事もない」
短い沈黙。
そしてエステルは言った。
「今の魔族の暮らしは、まるで白黒の絵」
「私はそこに色を与える」
マハトラは少し身を乗り出した。
面白い言い方だ。
「それと――」
エステルが合図する。
箱が運ばれてきた。
「新しい発明品も紹介するわ」
箱が開く。
次の瞬間。
部屋に澄んだ音が響いた。
鐘のような音色。
「これは……」
「音楽?」
エステルは静かに言う。
「音楽を楽しめるのは人間だけではない」
「これはクリスマスのための音楽」
「魔族のための音楽よ」
やがて。
部屋にジングルベルの旋律が流れた。
魔王は一言だけ言った。
「いいな」
「クリスマス計画は進める」
その一言で、会議は決まった。
◆◆◆
次の議題。
「ライカン・スロープ村より、魔王城執事の補佐を派遣したいとの申請です」
視線がマハトラに集まる。
「許可をお願いいたします」
魔王が問う。
「なぜ補佐が必要だ」
「魔王妃様の政策の影響です」
「ライカン・スロープ一族の関与が増え、管理業務が拡大しました」
魔王は少し考えた。
「よかろう。許可する」
「ありがとうございます」
マハトラは頭を下げた。
「補佐として来る者は教育行政の経験があります」
「侍女教育の準備を任せるのに適任かと」
「よい」
魔王は即座に許可した。
マハトラは微笑む。
準備は整った。
ソフィアはまだ知らない。
自分が入り込んだこの城が
すでに――
彼女を捕らえるための罠になっていることを。




