第75話 城に紛れ込んだ魔族を、エリンが見つけました
エリンは、ゆっくりと魔王城の廊下を歩いていた。
焦る様子はない。
足取りもいつも通りだ。
どう見ても、ただの見回りだ。
だが――
エリンの視線は、静かに周囲を観察していた。
廊下の向こうから侍女たちが歩いてくる。
エリンの姿を見ると、彼女たちはすぐに足を止めた。
「エリン様」
「お疲れ様でございます」
侍女たちは丁寧に頭を下げる。
エリンは自然な様子で頷いた。
「うん。ご苦労様」
いつも通りの返事。
侍女たちは安心したように微笑み、そのまま仕事へ戻っていく。
エリンはその横を通り過ぎた。
だが、その一瞬。
すれ違う侍女たちに意識を向ける。
(……違う)
感じ取れるのは、この区画で働く侍女たちの気配だけだった。
どれも人間のものだ。
魔族特有の魔力の流れは感じられない。
エリンは何事もなかったように、そのまま歩き続ける。
廊下を曲がる。
階段を下りる。
侍女たちが忙しく働いている区画へ向かった。
洗濯室の前。
侍女たちが布を運んでいる。
厨房の前。
食事の準備で慌ただしい。
倉庫の前。
物資を整理している侍女たち。
エリンが通るたび、侍女たちは慌てて頭を下げた。
「エリン様」
「こんにちは」
エリンは軽く手を上げた。
「仕事中でしょう。気にしないでください」
だがエリンは、その一人一人を見ていた。
表情は穏やかだ。
だが、その目は鋭い。
呼吸。
立ち方。
気配。
(……違う)
(ここにもいない)
(この人も違う)
エリンは静かに廊下を歩き続けた。
やがて。
エリンは小さく息を吐いた。
(やっぱり……)
見つからない。
だが――
あの時感じた魔力。
あれは確かに魔族だった。
間違えるはずがない。
だが、このあたりで感じる侍女たちの気配は、どれも人間のものだった。
エリンは立ち止まる。
そして、小さく呟いた。
「……このあたりには、もういない」
その言葉は独り言だった。
(あの気配は確かにあった)
見間違いではない。
感じ間違いでもない。
ならば。
答えは一つ。
(見失った)
エリンはそう結論づけた。
自分が母を追って動いている間に、
相手を見失ったのだ。
だが。
あの気配がいたことだけは間違いない。
エリンの目が、わずかに細くなった。
人間の侍女に紛れて、外部の魔族が潜り込む。
普通ならありえない。
警備は厳重だ。
それなのに――
城の中にいる。
しかも、侍女の姿で。
(内部から手引きがあった?)
その可能性もある。
だが、エリンはすぐに首を振った。
(まだ決めつけるのは早い)
証拠がない。
エリンは再び歩き出した。
(すべての侍女を調べる時間はない)
魔王城は広い。
侍女の数も多い。
一人ずつ確認していけば、日が暮れてしまう。
それでは遅い。
(なら――最初から、人員を動かせる相手を当たった方が早い)
エリンの頭の中に、ある人物の顔が浮かんだ。
城の人員配置を管理している人物。
侍女たちの配置。
仕事の割り振り。
城の中の人事。
そのすべてを把握している人物。
もし誰かが城に紛れ込んだのなら。
その人物を通さずに城へ入るのは難しいはずだ。
エリンは進む方向を変えた。
廊下の奥へ向かう。
人の往来が少ない区域だ。
静かな廊下を、エリンは歩いていく。
やがて。
一つの扉の前で足が止まった。
重厚な木の扉。
その横には、魔王城の紋章が刻まれている。
エリンは扉を見上げた。
そして、小さく呟いた。
「ここですね」
扉の脇の銘板には、こう記されていた。
マハトラ執務室。
エリンはゆっくりと手を伸ばす。
コンコン。
静かなノックの音が、廊下に響いた。
扉を叩いたが、返事はなかった。
エリンは少し眉をひそめた。
「……そこにいるんでしょう?」
そう言って、廊下の反対側へ声を投げる。
すると――
奥の廊下から、一人の男が姿を現した。
「私をお探しでしたか?」
現れたのはマハトラだった。
まるで最初からすべて分かっていたかのように、落ち着いた様子で歩いてくる。
その態度は、あまりにも平然としていた。
その瞬間。
エリンの目から、鋭い殺気があふれ出した。
空気が一瞬で冷える。
だが、マハトラはまったく動じない。
むしろ、少し首を傾げてみせた。
「どうなさいました?」
とぼけたような声。
白々しい。
エリンの中で、苛立ちが膨れ上がる。
(とぼけるつもりか)
エリンは低く、冷たい声で言った。
「侍女の中に、ずいぶん面白いのを混ぜてくれたな」
心外だと言いたげに、マハトラは肩をすくめた。
「……はい?」
目を瞬かせる。
だが、その反応もどこか芝居がかっている。
エリンは続けた。
「魔族だった」
「人間に化けていた」
「かなり巧妙だった。危うく見逃すところだった」
母を探すために、城の外を必死に歩き回っていた。
あの時は、まさに目を皿のようにして周囲を見ていた。
だからこそ気付けたのだ。
そうでなければ――
見逃していたかもしれない。
マハトラはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「……ここで話す内容ではありませんね」
そう言うと、執務室の扉を開いた。
「中へどうぞ」
エリンはその扉をじっと見つめた。
しばらく考える。
罠の可能性もある。
だが――
エリンはそのまま部屋へ入った。
執務室の中は静かだった。
書類が整然と並び、机の上には魔王城の書類が山のように積まれている。
マハトラは椅子へ腰掛けた。
「さて」
「どういうことです?」
エリンは簡単に事情を説明した。
母のことや魔王のことは伏せたまま。
城の外で出会った侍女たちについてだけを話した。
マハトラは黙って聞いていた。
そして。
「ああ」
と、納得したように頷いた。
「彼女たちは見習い侍女です」
「見習い侍女?」
エリンが眉を上げる。
「ええ」
「つい最近城へ入り、仕事を学んでいる段階の侍女たちです」
「……そうか」
エリンは短く答えた。
するとマハトラが手をひらひらと振った。
「ちなみに」
「先ほどの質問の答えですが」
「私ではありません」
完全に疑われたことが不服だと言いたげな仕草だった。
エリンはじっとマハトラを見つめた。
マハトラは指で顎を支え、考え込む仕草をした。
「ふむ……」
その様子を見た瞬間。
エリンは直感した。
(こいつじゃない)
犯人ではない。
少なくとも、今回の件の首謀者ではない。
エリンはため息をついた。
「お前じゃないなら」
「誰がやったんだ?」
人間に化けた魔族。
それを魔王城の見習い侍女として送り込んだ者。
その正体を尋ねている。
マハトラは少し黙っていた。
そして――
仕方がないというように、ゆっくり頷いた。
「……おそらく」
「ライカン・スロープ村でしょう」
「私を監視するために送り込んだのでしょうね」
エリンが目を細める。
「本当か?」
「それだけか?」
マハトラは肩をすくめた。
「さあ」
「ついでに、別の任務も与えられているかもしれませんね」
少し言葉を濁す。
エリンはその言い方を聞いて思った。
(本当と嘘を混ぜてる)
だが、一つだけ確かなことがある。
エリンは言った。
「お前、敵多いな」
マハトラは少し笑った。
「どうやら、あまり好かれる性格ではないようです」
エリンは頷いた。
「それは同感だ」
「俺もそう思う」
「ははは」
マハトラはぎこちなく笑った。
だが。
笑っている場合ではない。
今の問題は――
城の中にスパイがいることだ。
マハトラが真面目な顔に戻る。
「今すぐ捕まえるより」
「管理できる範囲に置いて観察する方が良いと思います」
「あるいは、城内での活動を制限するか」
エリンは聞いた。
「なぜ?」
「捕まえれば、また新しいスパイが送られてきます」
「ならば、泳がせておいた方が良いでしょう」
「こちらも対策を考える時間が稼げます」
「ふむ」
エリンはゆっくり頷いた。
「でも」
「どうやる?」
マハトラは腕を組んだ。
「それが問題です」
「私が動けば、確実に疑われます」
二人はしばらく黙り込んだ。
その時だった。
執務机の上に、魔法通信が届いた。
一通の指示書。
魔王妃エステルからのものだった。
エリンとマハトラは同時にそれを見た。
「おや?」
「これは……」
二人が同時に反応する。
エリンは小さく笑った。
「これならいけるな」
そして指示書を机へ戻した。
「母上の指示通りにやれ」
それから、マハトラをじっと見た。
指で目を指し。
そのままマハトラを指す。
――見ているぞ。
そんな意味のジェスチャーだった。
今回は必要だったから協力した。
だが。
余計なことをすれば、すぐ分かる。
そういう警告でもある。
エリンはそのまま執務室を出ていった。
扉が閉まる。
静かになった部屋の中で。
マハトラは指示書をもう一度見た。
そして、ゆっくり笑い始めた。
「ははは……」
「いやはや」
「魔王妃様は、また私を驚かせてくださる」
その指示書には。
マハトラですら、まったく想像していなかった内容が書かれていた。
この計画が通れば――
魔王城の空気は変わる。
そして、城に紛れ込んだスパイも
そう簡単には動けなくなるだろう。




