第67話 魔王、最悪の想像
「急用だ。父上に会いに来た」
エリンは落ち着いた声で言った。
黒い髪。
黒い瞳。
そして――
魔王を父と呼べる存在。
魔王の長男、エリンだった。
警備の魔族たちは戸惑った表情で顔を見合わせる。
その背後には、ベビーカー。
そして――
その中には、双子まで乗っている。
こんな状況は、今まで一度もなかった。
「……ど、どうされましたか?」
魔族の一人が恐る恐る尋ねる。
「父上に急ぎで話があります」
エリンは短く答えた。
迷いのない声だった。
魔族たちは一瞬だけ視線を交わし――
やがて、うなずいた。
「……ご案内いたします」
他でもない。
この少年は魔王の長男だ。
止める権限は、彼らにはない。
重い扉がゆっくり開く。
ギィ……
エリンはベビーカーを押して中へ入った。
◆◆◆
「何事だ?」
執務机の向こうから、低い声が響いた。
魔王だった。
エリンを一瞥し、すぐに言った。
「今の私は魔王としてここにいる」
「それに相応しい振る舞いをしろ」
冷たい威圧が部屋を満たした。
案内してきた魔族たちは思わず背筋を伸ばす。
だが――
次の瞬間。
エリンは一歩前へ出た。
そして、ゆっくりと頭を下げる。
胸に手を当てる。
完璧な礼だった。
「ケルベス一族の最高指導者にして、すべての魔族を統べる偉大なる王に拝謁いたします」
その場にいた魔族たちの目が見開かれた。
(まさか……)
(あの年で……)
完全な謁見礼だった。
しかも、一切の迷いもなく。
魔王の目がわずかに細められる。
「……それで?」
「何用だ」
エリンは顔を上げた。
「ご報告があります」
短く、はっきりした声。
「魔王妃エステル様が、今朝からお姿を消しております」
部屋の空気が凍りついた。
「……消えた?」
魔王が眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「扉が開いていました」
「洞窟も確認しましたが、誰もいません」
エリンは淡々と言った。
「今朝から姿が見えません」
魔王は腕を組んだ。
そして、鼻で笑った。
「城を歩いているだけだろう」
「それで?」
まるで大したことではない、と言うように。
だが――
エリンの表情は変わらない。
むしろ、わずかに頭を下げた。
「以上です。ご報告まで」
エリンはそう言って、もう一度だけ頭を下げた。
「失礼いたします」
くるりと背を向ける。
そのまま部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ドン。
部屋に静寂が落ちた。
◆◆◆
魔王は動かなかった。
しばらく、何も言わない。
だが――
次の瞬間。
手が、わずかに震えた。
(エステルが……消えた?)
今は朝。
本来なら、洞窟で眠っている時間だ。
だが、いない。
エリンが確認している。
つまり――
本当にいない。
魔王の胸の奥に、冷たい感覚が広がった。
(まさか……)
頭に浮かぶのは、ひとつの伝承。
この地に古くから残る話。
天から降りてきた女を妻にした魔族の話。
だが――
ある日、突然。
女は空へ帰り、姿を消した。
二度と戻らなかった。
(そんなことが……)
魔王の手が、机の上で握られる。
最近、忙しかった。
エステルの助けで、行政は驚くほど効率化された。
その結果――
空いた時間は、すべて仕事に使った。
エステルと過ごす時間は、むしろ減っていた。
(油断していたのか)
彼女はもう離れない。
そう思っていた。
だが――
もし、本当にいなくなったのなら。
魔王は椅子の背に深く身を預けた。
重い沈黙。
もし。
時間を戻せるなら。
たった一日でいい。
昨日に戻れたなら。
もっと話した。
もっと一緒にいた。
遅すぎる後悔が、胸の奥から込み上げた。
エステルの不在。
その波紋は――
やがて魔王城全体へ広がっていく。




