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第66話 母がいない朝

「えっ、エリン様?」


「エリン様が……ベビーカーを?」


エリンがベビーカーを押して魔王城の廊下を歩くと、あっという間に視線が集まった。


「魔王妃様が押しているんじゃないのか?」

「いま午前だぞ」

「ああ、そうか。今はお休みの時間だ」


そんなざわめきが、エリンの耳にも届いた。


ウィーン。


エリンはエレベーターのボタンを押した。


「きゃはは!」

「きゃきゃ!」


双子はエレベーターが楽しいのか、体を揺らしている。


「ここではおとなしくして」


エリンが言うと、双子はぴたりと止まった。


「母上がいたら怒られるよ」


以前、母に言われたことを思い出す。


――エレベーターでは走らないこと。


今度はエリンが、それを双子に教える番だった。


チン。


エレベーターが到着した。


エリンはベビーカーを押して外へ出た。


段差を越えるときは、少し力を入れて押す。


それも、母から教わったことだった。


「着いた」


魔王城のスイートルーム。


コンコン。


「母上。エリンです」


ノックする。


しかし、返事はない。


ギィ……


軽く押すと、ドアはそのまま開いた。


鍵はかかっていなかった。


「中にいらっしゃいますか?」


もう一度声をかけてから、エリンは中へ入る。


部屋はきれいに整えられていた。


だが――


母はいない。


開いた窓から、朝の風が入り込んでいた。


エリンは近づき、静かに閉めた。


「……洞窟にもいない」


そこも、もぬけの殻だった。


エリンの表情がわずかに曇る。


その瞬間、朝に覚えた違和感が胸の奥で蘇った。


馬小屋のあたりで、

ほんの一瞬だけ母上の気配を感じた気がしたのだ。


そんなはずはないと、何度も思った。


今の時間なら、

母上は眠っているはずなのに。


エリンは双子のベルトを外した。


「この部屋で母上の気配を探して」


気配探知に関しては、双子の方がエリンより優れていた。


「きゃは!」

「きゃは!」


双子は手をつなぎ、くるくる回り始めた。


エリンは、祈るような気持ちで見つめる。


どうか――

母上が見つかりますように。


けれど。


やがて双子は、ぴたりと止まった。


次の瞬間。


「うわああん!」

「わあああん!」


双子が同時に泣き出した。


母上の気配が、

この部屋のどこにも感じられないのだ。


エリンの胸がぎゅっと縮む。


自分だって、不安だった。


部屋を出る前、

こぼれた涙を袖で拭ったばかりだった。


でも、今は泣いている場合じゃない。


自分がしっかりしなければならない。


「だ、大丈夫」


エリンは慌てて言った。


まずは落ち着かせないといけない。


そのために、

エリンがもしもの時に備えて考えていたのが――


「ママ探しの遊び」


だった。


その言葉を聞いた瞬間、

双子の顔がぱっと明るくなった。


「きゃは!」

「きゃは!」


さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、

二人は嬉しそうに体を揺らす。


その時。


双子がエリンの服を引っ張った。


早くママを探そう!


そう言いたげだった。


「うん。でも次は父上のところ」


エリンは小さく息を吐いた。


母上が部屋にいないなら、

父上なら何か知っているかもしれない。


「父上も一緒の方が、遊びは楽しいでしょ?」


「きゃあ!」

「きゃは!」


双子が勢いよく頷く。


「でも、父上と話す時は静かに」


「きぃー」

「きゃは」


ベビーカーに乗らなくてもいい?

そう言いたげに、双子がエリンを見上げる。


「じゃあ遊びに参加できないよ」


すぽん。


双子はすぐベビーカーに戻った。


「行こう」


エリンはベビーカーを押す。


そして――


魔王の執務室の前に到着した。


「えっ?」


警備の魔族が驚く。


黒い髪。


黒い瞳。


そして――


魔王を父と呼べる者。


魔王の長男。


エリンだった。


魔族たちは顔を見合わせる。


こんなことは、今まで一度もなかった。


だが。


追い返すことはできない。


「……ご案内いたします」


エリンはベビーカーを押しながら、

魔王の執務室へ入っていった。


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