第65話 魔王妃、初めての朝の城を歩く
私は長い茶色のフードを深くかぶり、魔王城の外へ出た。
(この時間に外を歩くのは初めてだ。それに、太陽の下なんて……!)
思わずフードの端をつまむ。
まだ日傘も持たず、陽の下へ出るのは少し抵抗があった。
出入口の横には、見習い侍女たちが外へ出る時に使うらしい茶色のフードが、いくつも重ねて置かれていた。
その中からサイズの合うものを一つ取って、頭からかぶったのだ。
そして外へ出る。
「こうして空を見上げられるなんて……」
私はゆっくり息を吸った。
澄みきった朝の空。
本当に久しぶりだった。
ヴァンパイアは、
太陽のある空を見上げることさえ許されない種族なのかもしれない。
本能的に、空を見上げることを避けていた。
でも――
今は違う。
私はそれを乗り越えたのだから。
私は両手を広げた。
映画で見た、あのポーズ。
そう――
まるで『ショーシャンクの空に』のラストシーンみたいに。
太陽の下で、自由を味わう。
その時だった。
ざわざわと人の声が聞こえてきた。
二十人ほどの集団だ。
どうやら魔王城の侍女たちらしい。
(朝から変なポーズしてるって思われるかな……)
私は慌てて手を下ろした。
「おはようございます」
こんな朝の挨拶、いつぶりだろう。
「え、あ……おはようございます」
「おはようございます」
侍女たちは一瞬だけ首を傾げた。
だがすぐに、私が出てきた通路へ入っていった。
そして――
しばらくすると、全員が同じフードをかぶって戻ってきた。
彼女たちは私の周囲に集まり、楽しそうに話し始めた。
(あれ?)
侍女たちは、私のことをまったく気にしていない。
(もしかして……バレてない?)
私はそっと髪を触った。
赤い瞳は黒へ。
銀色だった髪も、落ち着いた茶色になっている。
炎の魔人が言っていた通りだ。
日光遮断を優先すると、目と髪はこの色になる。
必要なら元の色に戻すこともできるらしいけれど、
今はこのままの方が都合がいい。
魔力も隠している。
フードも同じ。
完全に侍女の一人として紛れていた。
(隠蔽効果、すごい……)
私は魔王城の頂上を見上げた。
魔王の執務室。
魔族たちの仕事場が集まる塔だ。
(この時間に私が外を歩いてるなんて……)
誰も思わないだろう。
今ごろは、洞窟で眠っていると思われているだろう。
その時、隣の侍女たちの会話が聞こえてきた。
「午前班に配属されたんだけど、仕事どうかな」
「ちょっと疲れるけど、一番楽って聞いたよ」
「調理場は大変らしいよ」
「でもあそこ、ご飯食べ放題なんだって」
「えっ、本当!? すごい!」
(なるほど)
私は状況を理解した。
(新人侍女たちだ)
魔王城の侍女は、
午前班
午後班
夕方班
に分かれて働く。
夜勤班も少しある。
その時だった。
「新人侍女のみなさん! こちらへ来てください!」
旗を持った女性が声を上げた。
まるで旅行ガイドのようだ。
周囲の侍女たちが一斉に集まる。
「行かないんですか?」
隣の侍女が声をかけてきた。
私は思わず一緒に歩き出した。
(このフード……)
やっぱり、見習い侍女が外へ出る時に使うものだったらしい。
(そういえば)
城の内部構造は分かるが、
外の施設や運営状況はあまり知らない。
いい機会だ。
紛れて見学してみよう。
魔王城の女主人として、知っておいた方がいいことだ。
「ではこちらへ」
旗の女性が黒い大きな建物へ向かった。
(あ、ここ)
思い出した。
魔王城の馬小屋だ。
以前、魔王に馬へ乗せてもらった場所だった。
あの時は日差しでひどい目に遭った。
人数が揃うと、全員で中へ入る。
(すごい)
私は思わず周囲を見回した。
ここへ入るのは初めてだ。
馬小屋なのに、嫌な匂いがしない。
魔法で清潔と換気が保たれているらしい。
旗の女性が施設の説明を始めた。
勤務方法。
人員。
新人向けオリエンテーションだ。
馬小屋に配属される可能性もあるため、新人侍女たちは真剣に聞いている。
その時だった。
ぶるるっ。
隣の大きな馬が、ぐいっと顔を近づけてきた。
(え……)
私は思わず固まる。
(まさか)
以前、私が乗った馬?
覚えてるの?
私はそっと人差し指を立てた。
シーッ。
今ここで騒がれたら、完全に目立つ。
すると馬は、
「なるほど、そういう事情ですね」
と言わんばかりに、ぴたりと静かになった。
(えらい)
私は心の中で頷く。
あとでニンジン追加だ。
私は再び説明に集中する。
(問題なし)
もし問題があれば後で改善するつもりだったが、
今のところ大きな不備はなさそうだ。
馬小屋も綺麗に管理されている。
吸血鬼としての鋭い視力は健在だ。
建物の隅々まで目を凝らしてみても、
気になる点は見当たらなかった。
「では次の施設へ移動します」
見学が終わり、次の場所へ向かう。
私は馬へ小さく手を振った。
(またね)
「そこの人、遅れないでください」
「あっ、はい!」
私は慌てて列へ合流した。
(次はどこかな)
問題がないといいけど。
気がつけば――
魔王妃による魔王城の抜き打ち視察になっていた。
◆◆◆
「……あれ?」
本を読んでいたエリンが、ふと顔を上げた。
(母上の気配が、いつもの場所にない……?)
エリンは首を傾げる。
今は朝だ。
母上が目を覚まして動く時間ではない。
つまり――
何かがおかしい。
エリンは椅子を持ってきて、その上に登った。
視線の先――
馬小屋の方向だった。
「おかしい……」
エリンは授乳室へ向かった。
入口のガーディアンたちはすぐ道を開けた。
中には乳母たちが待機していた。
「少し外で待っていてください」
乳母たちはすぐ部屋を出る。
双子は眠っていた。
「ねえ」
エリンは声をかける。
「ママ探しの遊び、する?」
ぱちっ。
双子の目が開く。
「にゃにゃ!」
「きゃあ!」
まるで
「なにそれ!?」
と言っているようだ。
「特別に参加させてあげる」
カチッ。
ベルトを外す。
「きゃああ!」
「きゃは!」
双子が空中をくるくる飛び始めた。
嬉しそうだ。
「じゃあ出発」
エリンはベビーカーを押して外へ出た。
「エリン様!」
ガーディアンと乳母たちが立ち上がる。
「ここは僕が見ます」
「同行します」
「大丈夫です」
エリンは笑った。
「少し時間がかかるかもしれませんし」
そして言った。
「休んでいてください」
そう言って歩き出す。
「きゃあ!」
「きゃ!」
双子が拳を握ってエリンを見る。
「どこ行くの?」という顔だ。
「まずは父上と母上の部屋」
魔王城のスイート。
母の洞窟。
そこから探索開始だ。
もしかしたら――
母上は、ただ眠っているだけかもしれない。
それなら、この遊びはすぐ終わる。
だが。
エリンの胸には
言いようのない不安が広がっていた。




