第159話 理想だけでは終われなかったけれど、ついにラスボスを継ぎきりました
「ソフィア」
「大丈夫?」
私は、
ソフィアの頭をそっと撫でた。
魔王は、
黙ってその様子を見ていた。
「え……」
「ええ……?」
「どうして?」
目を覚ましたソフィアが、
ぱちぱちと瞬きをした。
私はできるだけやわらかく笑う。
「久しぶり」
「元気にしてた?」
「お姉ちゃん?」
「今までどうしてたんですか?」
「というか、
これっていったいどういう状況ですか?」
縛られたままのソフィアが、
きょろきょろと周囲を見回した。
そして次の瞬間、
魔王の姿を見つけて
目を大きく見開く。
「ま……魔王様?」
魔王は軽く手を振った。
「構わん」
「そのままでいい」
私がどうするのか、
黙って見守るつもりらしかった。
ここで魔王が前に出たら、
空気が一気に変わってしまう。
「まさか、お姉ちゃん」
「魔王様付きの侍女だったんですか?」
「それで見かけなかったんですね」
ソフィアの問いに、
私は少し困ったように笑った。
「ごめんね、ソフィア」
「実は、
言ってなかったことがあるの」
「え?」
しばらくして、
私の体が元に戻り始めた。
瞳が赤く染まり、
銀髪も本来の色へ戻っていく。
「えっ」
「ええっ?」
「まさか、この気配……?」
私は静かに言った。
「私は魔王妃エステル」
「あのときは事情があって、
正体を隠してたの」
「ええっ」
ソフィアは、
本気で驚いているようだった。
それも無理はない。
見習い侍女だと思っていた人間の女が、
実は魔王妃。
しかも、
ヴァンパイア一族の長である
エステルだったのだから。
私はソフィアを見て問いかけた。
「でもソフィア」
「スパイだったの?」
「どうしてそんなことをしたの?」
「い、いや、
その……」
「もうそんなことしなくていいの」
「ライカン・スロープとは、
もう平和的な関係になったから」
「平和的な関係ですか?」
「そう」
「総統ともちゃんと挨拶したし、
子どもたちも同じよ」
「これから先の世代は、
もう争わずにやっていけるはず」
私は落ち着いた声で続けた。
「私の言葉が信じられないなら、
ライカン・スロープに連絡して
確認してもいいわ」
「そのまま戻ってもいいし、
このまま魔王城に残ってもいい」
「ここで普通に暮らせるようにするから」
「え……」
「ええ……」
「それは……」
魔王は、
ソフィアが言い淀む様子を見ていた。
当然の反応だった。
いきなり自分がスパイだと断定されて、
そこから話を始められたら、
誰だって戸惑う。
ソフィアが慎重に尋ねた。
「私がスパイだって、
どうして……?」
私は黒板を指差した。
「ここに書いてあるじゃない」
黒板には、
こう書かれていた。
【この女がスパイです!】
ソフィアの顔が引きつった。
「今、
私をからかってるんですか?」
魔王は、
その反応に納得した。
だが同時に、
ふと違和感も覚えた。
(なぜだ?)
目の前の女は、
今や目の前にいるのが
魔王妃だと知っている。
それなのに、
こんな態度を取っている。
普通の人間侍女なら、
たとえこの状況でも
ここまで言葉を返すことはできないはずだった。
(……ん?)
その瞬間、
魔王の感覚が
異質な気配を捉えた。
何かが殻を破って
姿を現そうとするような感覚。
今まで隠れていた鋭い短刀が、
少しずつその姿を現していくような、
そんな気配だった。
(まさか)
魔王は息をのんだ。
妻の判断は正しかった。
この女は、
ライカン・スロープから送り込まれたスパイ。
しかも、
最精鋭の工作員に違いない。
自分にすら見抜けないほど、
完璧に人間へ擬態していたのだ。
(妻が危ない)
魔王はスパイを刺激しないよう、
ゆっくりと立ち上がった。
そして、
エステルのほうへ歩き出す。
ソフィアが低く言った。
「こういう形でスパイを懐柔されるのは、
初めてですね」
「どうせ、
命乞いなんてする気はありません」
その瞬間だった。
ソフィアの口が、
わずかに開いた。
その中から、
鋭い針が撃ち出される。
最後の一撃。
死を覚悟したスパイが放つ、
切り札だった。
◆◆◆
(これで終わり)
ソフィアは絶望した。
不意を突かれて気を失い、
目を覚ましたときには
そこに以前会った姉のような女がいた。
黒い瞳が綺麗だった人。
けれど驚いたことに、
その後ろには赤い髪の男が立っていた。
魔王。
ひと目で分かった。
あの一族の魔力の匂いは、
あまりにも独特だったからだ。
凄まじい魔闘気が、
その体から流れ出していた。
息が詰まるほどの圧迫感。
まさに戦場を渡り歩いてきた男のそれだった。
「まさか、お姉ちゃん」
「魔王様付きの侍女だったんですか?」
「それで見かけなかったんですね」
「ごめんね、ソフィア」
「実は、
言ってなかったことがあるの」
「え?」
しばらくして、
彼女の姿が変わり始めた。
目が赤く染まり、
髪も銀色へ戻っていく。
「えっ」
「ええっ?」
「まさか、この気配……?」
魔族の気配。
それも、
とてつもなく濃い。
ソフィアの背筋に
ぞくりとしたものが走った。
正体を隠していたのは、
自分だけではなかった。
エステルも、
同じだったのだ。
「でもソフィア」
「スパイだったの?」
「どうしてそんなことを?」
エステルは、
ライカン・スロープとはもう平和的な関係になったから、
これ以上スパイ行為をする必要はないと言った。
だがソフィアは、
すでに本部との連絡すら断っていた。
秘密を守るためだ。
いわゆる、
〈放たれた矢〉。
引き返せない命令を受けた者。
だから、
エステルにそう言われたところで、
止まることはできなかった。
(これ、
マハトラの仕込みじゃないの?)
(それとも、
魔王城の防諜部門って
そんなに優秀だったの?)
これまで集めた情報では、
魔王城にはまともな防諜部門なんてなかった。
「私がスパイだって、
どうして?」
「ここに書いてあるじゃない」
ソフィアは顔を向けた。
教室の黒板。
そこには、
こう書かれていた。
【この女がスパイです!】
ソフィアは呆然とした。
こんなスパイ摘発のされ方は、
初めてだった。
もう逃げられない相手だからと見て、
自分をいたぶっているのか。
そのとき、
魔王が近づいてくるのが見えた。
(好機だ)
たとえここで死んでも、
魔王暗殺だけは果たさなければならない。
魔王の魔力分析は、
完璧ではなかった。
だが、
あの男をある程度仮死状態にまで持ち込める毒は、
すでに完成していた。
するり。
口の中に仕込んでいた毒針。
任務のため、
一度だけ使えるようにしてあった
最後の切り札だった。
(どうせ、
エステルに向かって撃つと思うでしょうね)
だからこそ、
エステルの背後から近づいてくる魔王は、
自分が狙われるとは思わないはずだった。
甘かった。
ソフィアの狙いは、
エステルではない。
魔王だった。
ひゅっ!
鋭い毒針が、
紙一枚分の差で
エステルの頬をかすめて飛んだ。
まっすぐ、
魔王へ向かって。
なのに。
たっ。
どたんっ。
(え……?)
(どうして?)
ソフィアは信じられないものを見るように、
目を見開いた。
魔王が、
妻のエステルを抱きかかえて
横へ転がったのだ。
もしソフィアが
本当にエステルを狙っていたなら、
彼女をかばった魔王が当たっていたはずだ。
だが毒針は、
最初からエステルを通り越して
魔王を狙っていた。
そのせいで、
逆に狙いは外れた。
(どうして?)
(魔王は、
自分じゃなくて
エステルを助けたの?)
(自分の命こそ、
何より大事なんじゃないの?)
ソフィアの任務は失敗した。
びりっ。
(くっ……)
拘束していた縄から、
電撃が流れた。
魔王の攻撃が、
ソフィアを再び気絶させたのだ。
◆◆◆
その瞬間、
頬が熱を持った。
何かがかすめた。
そう思った次の瞬間には、
魔王が私を抱き寄せて転がっていた。
「きゃっ!」
私も思わず悲鳴を上げながら、
床を転がる。
まるで、
アメフト選手がそのまま突っ込んできたみたいだった。
魔王の重みが、
そのまま私にのしかかる。
「いたた……」
いったい、
何が起きたのだろう。
どうして急に、
魔王が私に?
そのとき、
頭の中に声が響いた。
【プログラム改変完了】
【魔王削除命令、完全削除】
【ラスボスの完全継承が行われます】
(わあ)
(ついに!)
思わず、
心の中で叫んだ。
今まで頑張ってきたことへの
ご褒美をもらった気分だった。
けれど、
魔王の表情はまだ固いままだった。
「危なかった」
魔王の指が、
片方の壁を指す。
私もそちらを見る。
(あれは……?)
ヴァンパイアの鋭い視力が、
それをはっきり捉えた。
鋭い毒針。
それが、
壁に突き刺さっていた。
(えっ)
(あれ、
ソフィアが撃ったの?)
私の頬を、
ぎりぎりでかすめていったらしい。
振り返ると、
ソフィアはまた倒れていた。
魔王が縛っていた縄が、
電撃の拘束具みたいに
彼女を気絶させたのだろう。
魔王が低く言った。
「私を狙ったものらしい」
「まさかあの女も、
私があなたを抱えて転がるとは
思わなかったようだな」
私はようやく理解した。
魔王が突然、
私に飛び込んできた理由を。
私が危ないと思って、
身を投げ出してかばってくれたのだ。
「危なすぎます」
「あなたが怪我でもしたら
どうするんですか」
私は、
魔王の頬にそっと触れながら言った。
「あなたは魔王なんですよ」
「この地の支配者なんです」
「大事な存在なんです」
魔王が、
まっすぐ私を見た。
「そんな私にとって、
いちばん大事なのはあなたです」
「無事でよかった」
私を抱きしめたままの夫。
そのまま、
熱のこもった口づけが続いた。
私も、
拒まなかった。
これは、
ラスボス継承の儀式みたいなものだったから。
ついに。
私は、
自分が望んでいたものを手に入れたのだ。
◆◆◆
新たな魔王。
エステル。
管理者権限により、
魔王暗殺イベントを発生させます。
管理者権限により、
新たな暗殺者を追加します。
管理者権限により、
暗殺者の全能力値を
最大値まで上昇させます。
管理者権限により、
暗殺者の全スキルを
最大値まで上昇させます。
管理者権限により、
削除命令を追加します。
管理者権限により、
削除対象に
エステルのすべての子どもを含めます。
管理者権限により、
削除命令を追加します。
管理者権限により、
削除対象に
エステルの夫を含めます。
システムアップデートを開始します。
過剰な改変により、
システムエラーが発生しました。
アップデートを保留します。
管理者権限により、
自動エラー修正へ入ります。
エラー修正完了後、
アップデートを再開します。
管理者は、
当該アップデートを必須アップデートに指定します。
他の管理者の介入は禁止されます。
以上。




