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第112話 拾った白い子のことを、私たちはまだ何も知りませんでした

「驚いた……」


ジョシュアは、

手にした乾パンを見下ろした。


(うまい)


(だが、それ以上に驚くべきなのは……これが野営で使うにはあまりにも優秀だということだ)


揚げる前なら、

そのままでも食べられる。


保存もしやすそうだ。

熱量も高い。


体力維持用としては、

これ以上ないくらい理想的だった。


(いったい、魔王軍の底力はどこまである?)


総統閣下が本気になれば、

いつでもアトランティス島を平らげられる。


ジョシュアはそう思っていた。


だが――


エステルが差し出した、

たった一片のパンが。


その確信を揺るがしていた。


隣に立つシュルケも、

同じような顔をしている。


「大したものですね、隊長」


「……ああ」


表向きには、

シュルケが直属部隊の責任者として振る舞っていた。


だが、

本当の隊長はジョシュアだ。


直属部隊は秘匿部隊。


エステルに対して、

真の指揮官をいきなりさらすわけにはいかなかった。


だからシュルケを前に出し、

ジョシュア自身は一般兵に紛れていたのだ。


(それなのに)


(あの女は……まっすぐ俺のところへ来た)


ジョシュアの目が細くなる。


(まさか)


(隠しても、全部分かっているとでもいうのか?)


もちろん、

偶然かもしれない。


だがジョシュアは、

そうは思わなかった。


魔王妃であり、

ヴァンパイア一族の長でもある女が。


わざわざ食事の支度をしている

一介の兵士に近づく理由など、

普通はない。


なら答えは一つだ。


(最初から、俺の正体を見抜いていた)


そのとき、

シュルケが乾パンをいくつか取り分けた。


「補給部隊に回して、分析を依頼します」


ジョシュアは首を振る。


「送るのは送るべきだが、無駄になるだろうな」


「え?」


「隠すつもりだったなら、最初から俺たちに渡していない」


「あ……」


シュルケもすぐ理解した。


エステルはたしかに言っていた。


今後は彼らの側にも提供できると。


つまりこれは、

秘匿すべきものでも何でもないのだ。


「たしかに……」


シュルケは、

もう一度乾パンを見下ろした。


「それにしても、見事です」


軍用食といえば、

味気なく、

とにかく腹を満たすためだけのもの。


それが常識だった。


なのにこれは違う。


その常識そのものを、

正面から叩き壊している。


シュルケが低く言った。


「魔王妃は、なぜこれを我々に見せたのでしょう」


その言葉に、

ジョシュアはもう一度エステルを思い浮かべた。


頭の空っぽな美人。

見目はいいが、

中身はない女。


そんな情報もあった。


だが、

今ので確信した。


(あの情報は間違っている)


(あの女は馬鹿ではない)


むしろ正反対だ。


ここまで、

徹底して本性を隠してきた可能性すらある。


行動の一つ一つが計算されている。


決して、

簡単な相手ではない。


そう考えると、

すべての意味が変わる。


自分にまっすぐ近づいてきたことも。

乾パンを見せたことも。

兵士たちが食いつくような形で説明したことも。


全部、

計算だ。


ジョシュアは結論づけた。


「魔王軍の力を誇示したいんだろう」


「今、魔王軍がお前たちを見張っている。余計な真似はするな――そういう警告かもしれん」


シュルケが黙ってうなずいた。


補給品一つ見ても、

軍の水準は分かる。


加えて、

いま斥候部隊から上がってきている報告。


国境地帯には、

魔王軍が集結しつつある。


それもただの兵ではない。


人間の軍勢と戦っていた、

最精鋭の主力部隊だ。


その兵力が、

刻一刻と増えている。


シュルケが唇を引き結んだ。


「ヴァンパイアたちも同時に動く可能性が高いでしょう」


「……」


その言葉に、

ジョシュアの脳裏にも

別の名が浮かんだ。


伝説の存在。


「真祖、か……」


彼は低くつぶやく。


「はたして、本当に実在するのか」


最初のヴァンパイア。

常識外れの戦闘力を持つと伝わる存在。


たとえ真祖がいなくても、

ヴァンパイアの軍勢そのものが

すでに十分すぎる脅威だった。


ジョシュアは頭の中で地図を描く。


(南は魔王領)


(西はヴァンパイア)


(下手をすれば……二方向を同時に押さえなければならなくなる)


考えただけでも、

ぞっとした。


彼は奥歯を噛みしめる。


「少しでも隙を見せるわけにはいかない」


目の前の穏やかな空気だけを、

信じてはいけない。


相手が最初から、

難癖をつけるつもりで来ているなら。


そこに引きずり込まれてはならなかった。


(報告事項がまた増えたな)


乾パンの件。

国境地帯の動き。

魔王軍の増派。

エステルの態度。


全部、

総統へ上げなければならない。


ジョシュアが低く舌打ちした。


「ちっ……」


「愚かな青年団め」


あの連中の暴走のせいで、

最初から弱みを握られたまま

振り回されている。


いつエステルが仮面を脱ぐのか、

分からない。


だからこそ、

なおさら気を抜けなかった。


◆◆◆


「これ、本当においしいです」


エリンが、

目をきらきらさせながら言った。


「魔王城に戻ってからも、また食べたいです」


その言葉を聞いた瞬間、

双子の口元にじわっとよだれがにじんだ。


「くああ……」

「くう……」


どう見ても、

自分たちも同じものが食べたい顔だった。


私はそんな子どもたちを見て、

ふっと笑った。


「とにかく、おいしいものをあげたんだから、少しは空気もよくなるでしょう」


そのとき。


きいん。


ポチが、

エリンのほうを向いて小さく鳴いた。


「ん?」


エリンはすぐに、

泡玉を作ってやった。


ふわり。


ポチはその中へ入ると、

目を閉じた。


「ポチ、また寝た」

「くやや」

「かや?」


子どもたちは泡玉のそばに座って、

ポチが眠る姿をずっと眺めていた。


不思議で仕方ないらしい。


おかげで、

子どもたちも馬車の中で退屈せずに済んでいた。


……そして私も、

その隣で一緒に見ていた。


私は泡玉の中のポチを見ながら、

ぽつりとつぶやいた。


「本当に真っ白ね」


あれだけ苦労していたようなのに、

全然汚れていない。


毛並みも、

ものすごく綺麗で柔らかそうだった。


「何の種類なのかしら」


知らない人が見たら、

狼に見えてもおかしくない。


(……ん?)


私は少しだけ動きを止めた。


(いや、まさかね)


(あんなにおとなしい狼がいるわけないわ)


双子がなでなでしたときも、

じっとしていたのだ。


それを見て、

私は安心していた。


食べ物も好き嫌いせず、

ちゃんと食べるみたいだし。


(今度は別のものも作ってあげようかしら)


エリンが言った。


「ポチ、本当によく寝ますね」


「まだ子犬だからじゃないかしら」


私はうなずいた。


「小さいうちは、たくさん寝るものだもの」


おかげでうるさくもないし、

助かっていた。


私は泡玉の中をのぞき込む。


ポチのまぶたが、

ときどきぴくぴく震えた。


鼻先も、

ひくひく動いている。


「どんな夢を見ているのかしら」


ここへ来るまでにあったことを、

夢に見ているのかもしれない。


◆◆◆


我はライカン・スロープの神獣。


そして、

王の子だ。


反乱勢力が王位を奪った。


父は殺された。


そして今度は、

我を殺そうとしている。


――追え!

――必ず殺せ!


王位を簒奪した叔父。

その直属の配下たちが、

我を追っていた。


フェルリンの牙は鋭い。

脚は速い。

そして一度狙った獲物は、

決して逃さない。


そんな一族の戦士たちが、

今この瞬間も我を追っていた。


(生きねばならぬ)


(どうしても生き残らねばならぬ)


(逃げ延びて……必ず戻る)


(復讐し)


(王位を取り戻すのだ)


ここで死ぬわけにはいかなかった。


我は魔境を抜け出した。


わざとヴァンパイアの匂いが濃い土地にまで潜り込んだ。


それでも奴らは追ってきた。


終わらぬ追跡。

尽きぬ逃走。


結局、

我は再び魔境南部へ戻ることになった。


(腹が減った)


(苦しい)


(眠い)


何か月ものあいだ、

ろくに休むこともできなかった。


奴らは我に、

休む暇を一切与えなかった。


わざと追い立てていた。


(絶望しろと?)


(打ちひしがれろと?)


(弄んでいるつもりか)


そう思った瞬間、

余計に歯を食いしばった。


(奴らは必ず後悔する)


(必ず逃げ切ってみせる)


(必ずだ)


だが。


我の決意を読んだとでもいうように、

奴らは突然さらに距離を詰めてきた。


絶体絶命。


背後から、

奴らの荒い息遣いが聞こえる。


(このままでは……死ぬ)


そのとき、

我の鼻が

『あの連中』の匂いを捉えた。


(なぜだ?)


(ここはライカン・スロープの土地だぞ?)


気づけば我は、

その匂いのほうへ走っていた。


どんどん濃くなる。


フェルリンに刻み込まれた、

ヴァンパイアの匂い。


奴らがどこにいようと、

我らには分かる匂いだ。


そして、

遠くに何かが見えた。


(ウムカウテの子か?)


我はそいつを飛び越え、

そのまま駆け抜けようとした。


だが――


ふわり。


突然、

我の体が何かに閉じ込められた。


(何だ)


(捕らえられたのか?)


だが、

おかしい。


こんな魔法は、

フェルリンにはない。


そのとき、

声が聞こえた。


「お前は、あちらにいてください」


いきなり、

我は向こうへ押しやられた。


黒い髪。

黒い瞳。


妙な見た目の子どもだった。


我は抜け出そうとした。


だが、

できぬ。


泡玉が、

我の動きを完全に封じていた。


(驚いたな)


(我は王の子)


(選ばれし白き毛並みの存在だ)


(その我を封じるとは)


一瞬、

自尊心が傷ついた。


(何を考えている)


(我を捕らえ、あの者どもへ引き渡すつもりか)


(それで自分たちの安全を買うつもりか)


だがその直後、

信じがたいものを見た。


膨大な魔力。


あの黒髪の子は、

あり得ぬほど強かった。


(……)


(少なくとも敵ではない、のか?)


そう思った瞬間。


今まで押し殺していた疲労が、

一気に押し寄せてきた。


(少し眠ろう)


(次に目を開けた時には……生きているか、死んでいるか。そのどちらかだろう)


そう思った途端、

我は深い眠りに落ちた。


◆◆◆


再び目を開けた。


外で何かが動く音がする。


そっと様子をうかがう。


我を追っていた者どもは、

骨だけになっていた。


凄まじい炎で焼かれたらしい。


そして小さな者どもは、

我が見ているとも知らず、

地面を掘ってその骨を埋め始めた。


(なぜだ)


(墓でも作ってやるつもりか?)


妙な者たちだ。


敵への礼儀にしては、

少し変わっている。


そのとき、

馬車の扉が開いた。


一人の女が出てきた。


その瞬間、

我は違和感を覚えた。


(なぜだ?)


あの女からは、

何の匂いもしない。


それはあり得ない。


匂いがしない。


つまり、

魔力の気配まで隠しているということだ。


茶色の髪。

黒い瞳。


おそらく、

あのウムカウテの子の母だろう。


我はずっと、

その女を見ていた。


(どういう仕掛けだ)


(どうやって魔力を隠している?)


そのとき、

小さな者どもが

我をその女の前へ連れていった。


我は少し期待した。


(まさか)


(神獣だと見抜いたのか?)


(まあ、見誤るはずもないか)


(ならば、これより我を丁重に――)


「子犬?」


我はその瞬間、

固まった。


(……何だと?)


(子犬?)


(まさか)


(我がライカン・スロープの神獣だと分からぬのか?)


あまりにも信じがたかった。


だが今の我には、

選択肢がない。


我はそのまま泡玉の中で、

休み続けることにした。


(いいだろう)


(今はまだ力が足りぬ。だから見逃してやる)


(だが、成長して体が大きくなったその時は……)


(我を子犬呼ばわりし、無礼にも勝手に触れたこと)


(その時は決して許さぬ)


そう決めた途端、

我はまた眠りに落ちた。


とにかく、

疲れていたのだ。


どれだけ眠っただろう。


ふと、

どこからかうまそうな匂いが漂ってきた。


向こうにいた

羽の生えた子ども二人が、

びゅんと外へ飛び出していく。


(無礼な)


(うまいものがあるなら、まず神獣たる我に献上すべきだろう)


だがしばらくして、

何かを持って戻ってきた。


(供物か?)


やがて我は、

泡玉の外へ出された。


うまそうな匂いが、

すぐ目の前から漂ってくる。


(よかろう)


(ようやく我の価値を理解したか)


我は余裕の表情で、

その供物を見下ろした。


だが、

少し期待外れだった。


(貧弱だな)


(肉がないではないか)


我はぷいと顔をそむけた。


こんな供物は受け取らぬ、

という意思表示だった。


そのとき、

妙な言葉が聞こえた。


――じゃあ、犬の餌をあげたほうがいいのかしら。


(それはなおさら駄目だ)


(そんなもの、食うわけがなかろう)


(よし)


(今回は特別に、直々に食ってやる)


しゃく、しゃく。


(……ほう?)


(思ったより、うまいな)


今まで食べたことのない味だった。


しかも不思議なことに、

体力がみるみる満ちていく感覚がある。


魔境で食べていたどんなものよりも、

ずっと我の体に合っていた。


(もっと献上しろ)


我は女をじっと見た。


そこで気づく。


(……む?)


(よく見ると)


(また、あの者どもの匂いがするな)


髪の色も変わっている。

瞳の色も変わっている。


(この女)


(ヴァンパイアの匂いを隠せるのか?)


(妙な能力者だな)


我の視線に気づいたのか、

女は子どもに命じて

再び供物を差し出させた。


しゃく、しゃく。


(肉ではないが……食ってやろう)


(なかなかうまい供物を持ってきた褒美に)


(怒りの裁きは、しばし先送りにしてやる)


(だが、成長したその時は……)


(貴様らなど……)


そして、

一つだけははっきり決めた。


(犬の餌は食わぬ)


(絶対に持ってくるな)


◆◆◆


「母上!」


「ポチ、起きました!」

「くああ!」

「くあ!」


子どもたちが大騒ぎしながら叫ぶ。


その声につられて、

私はすぐポチを見た。


ポチはまた、

じっと私を見上げていた。


「本当に?」


私はポチを見ながら、

ふっと笑う。


(この子)


(私が母で)


(ごはん係だって分かってるのかしら)


(賢いわね、ポチ)


エメラルド色の瞳も、

本当に綺麗だった。


毛並みも真っ白だし。


(品種で言えば、かなり上等なほうなんじゃないかしら)


私はポチのお腹をそっと見た。


きゅっと細くなっていた。


(まあね)


(長いことろくに食べていなかったなら、当然か)


(しかも成長期の子犬だし)


でもすぐ、

現実的な問題が浮かんだ。


「でも、乾パンがもうないのよね」


私は困った顔になった。


反応があまりにもよかったから、

護衛していた直属部隊に

全部分けてしまったのだ。


頑張っている者たちへの褒美として。


その瞬間、

私の言葉が終わるのと同時に、

ポチの頭ががくっと下がった。


「……あら?」


私は目をぱちぱちさせた。


(この反応……)


(双子ががっかりした時とそっくりじゃない?)


私はすぐに、

別の案を思いつく。


「代わりに、食材箱にお肉と野菜が少しあるから」


「それでポチ用のごはんを作ってみましょうか」


その瞬間だった。


ポチの頭が、

またすっと持ち上がる。


私は思わず笑った。


「あらまあ」


「この子、お肉が大好きなのね」


まあ、

子犬なのだから。


きっとそういうものなのだろう。


(……そういうものよね?)


私は犬を飼ったことがないけれど、

とりあえずそう思うことにした。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。続きが気になりましたら、ブックマークで応援していただけると嬉しいです。

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